1(両親に感謝!)
わたしが岡山市議会議員に初当選したのは1983年(昭和58年)4月、38歳の時でした。
平和の党、日本共産党から立候補しての当選でした。なにも言わなかったが、わたしが前回市議選で落選していただけに父は喜
んでくれたのではないかと思う。父は喜怒哀楽をあまり顔にださない明治の男でしたから、その表情からは真意はわかりませんでした。
わたしは1944(昭19)年5月4日にこの世に生を受けました。母の話しによれば、わたしの兄が病死をしたとのことで、父は“同じ
死ぬなら早く死ね”と生まれたばかりのわたしに家族の猛反対を退けニンニクを擦って口にねじ込んだと言う。60歳を超えたわたしが
いまだに病気らしい病気もせずに仕事が出来ているのはそれが幸いしたのかもしれないと心密かに思っている。
わたしの悪運(家族はわたしの運気を悪運という)はこれだけではない。
1945(昭20)年6月29日は岡山市が米軍の空襲を受けた日だ。この日、わたしは両親とともに神戸から引き上げたばかりで岡
山駅前の旅館に宿泊中だったそうだ。“岡山は安心だろう”と熟睡中に空襲を受けたので大いに慌てたそうだ。岡山の町は灰燼と期
し、1700人を超える死者をだしたという。その中で、火の海をくぐり、親の背中で死の彷徨を経て、今まだ生かされていることは奇跡
だとみんなは言う。わたしの人生が紆余曲折を経ながらも平和志向であるのはこの経験によるのではないかとも思う。
それに親というものは本当に有難い。命がけで子どもの命を守ろうとするのだから。まず両親に感謝です!
愛の形にもいろいろある。親子の愛、兄弟の愛、夫婦の愛などの家族愛、友達どうしの愛、もっと、もっと広く言えば人類愛。
さまざまな愛のなかでももっとも絆が強いのはやっぱり親子の愛ではないかと思う。人類みなそれぞれが一人ひとりを大切にする愛を
持てば“戦争”なんか起こらないのにと思う。マザー・テレサがいっぱい、いっぱいいるといいのに・・・。マザー・テレサはブッシュや小泉など
の心になぜ住まないのだろう?
先の大戦で中国、満州の地に子どもを置いてこなければならなかった親の気持ちはどんなに辛かったか。
その子どもたちもどんなに辛い人生だったことか!そんなことに思いを巡らせていると、日本共産党があの戦前の天皇制のもとで
“侵略戦争反対”を貫きとおしたということは声を大にして誇りうることだと思えてくる。
さて、話しを元に戻そう。その悪運強きわたしが初回落選したのにはそれなりの理由があった。
つづく