11(ジグザグの道を!)

 光本氏を失った後の初戦敗北。しかし、もう後には引けません。

 14大会の中央委員会報告にあるように敗北の軍隊はよく学ばなければなりません。前に進めば、困難が課題を明

確にしてくれるでしょう。「実践あるのみ!もう迷わない」わたしは走りはじめました。

 この時の地方自治体の議員選挙で、わたしは落選しましたが、わが党は3,223名から3,598名へと375名も議

員を増やしました。そして、この年の秋の衆議院議員選挙でわが党は革新共同議員を含め19議席から41議席へと

躍進しました。岡山では則武真一さんの当選で大喜でした。

 しかし、敵もさるもの、放置は致しません。大反撃に打って出てきました。

 自民党は80年に衆参同時選挙をやり、大平首相の追悼選挙とし、予想外の議席増をはたしました。(‘79年の総

選挙で得票率の若干の改善、’80年のダブル選挙でさらに議席の過半数を制した)

 わが党は41議席から‘80年には29議席へと後退しました。参院全国区でも後退を余儀なくされました。

 京都、横浜、東京、大阪、沖縄等の革新自治体も失いました。この背景には、地域の統一戦線を破壊した社会党

の裏切りの存在がありました。社会党は公明党へなりふりかまわず急接近し、破綻しつつある自民党路線への補強の

道を歩み始めました。社公連合政権の基本政策には「日米軍事同盟が必要」との公明党の見地が盛り込まれ、

“当面の政権で排除するのは共産党だけ”という基本点で一致しています。

 つまり、排除するのは共産党であって、自民党、民社党への連合政権への門戸は開かれていました。ところが、社会

党指導部はあちらでも、こちらでも「反自民の構想だ」と弁明して歩いていました。15回大会(‘80.2)での冒頭発

言で委員長は、「社会党指導部は公明党との連合を公明党が保守に接近するのを防止するための高度な作戦であ

るかのように弁明しています。しかし、公明党幹部が公民の連合政権構想を社公連合政権構想よりも基本にすること

を公然とくりかえしているように、社会党を社公民路線、つづいては保守勢力への連合路線に導く戦略を堅持している

のであります」と、社会党が公明党に屈服したのだと厳しく指摘しましたが、26年後の今日の状況はまさにこの指摘ど

おりとなりました。さらに、今では社会党も、民社党も雲散霧消、無くなってしまいました。
                                                                                                                              つづく
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