10(登ったものでないと山の良さはわからない)

 二次遭難により「救助・捜索」は中止となりました。夏の雪解けを待つ以外に方法を選択する余地が無くなったので

す。光本敏彦さんは民商活動ではわたしの先輩でした。26歳から途中入局したわたしのほうが年齢は上でしたが、彼

は経理に詳しく、わたしにいろんなことを教えてくれました。民商も草創期で広島から谷正夫さんをお迎えして数年目で

したが、まだまだ小さく会員はわずか2百名ばかりでした。谷正夫さんと奥さんはわたしの人生に大きな影響を与えてく

れた方ですが、わたしは尊敬と同時に、実の両親と同じくらいの気持ちを今でも抱いています。

 わたしが民商に入局した頃の民商事務局員は事務局長が谷さん、光本さん、退職後は石材屋に勤務していた中

島さん、岡山県商工団体連合会事務局長を退職した西村さん、それにわたしの5名でした。会費を集金しても事務

所の維持費をまかなうのが精一杯で給料(当時約2万5千円)は遅配、遅配でしたが、気持ちは充実していました。

 民商の仕事は、金には縁遠いけれども、石川啄木がやりたいと思ったようなやりがいのある仕事に思えました。

  こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ

 野田屋町の小さな事務所で春の確定申告の時期は光本さんとコンクリートの土間に寝袋で仮眠をとりながら執務し

ました。こうして民商も250名、500名、1000名、1500名、2000名に、そして県下では4000名を超えるほど

の大きな民商になりました。そして、事務所も、野田屋町から内山下、そして現在の西島田へと会の成長、発展とあ

わせて衣を脱ぎかえていきました。

 こうした民商運動の発展途上での彼の死は口では言い表せないほどのとっても大きな痛手でした。

 わたしは彼に尋ねたことがあります。彼が登山に出かける前の忘年会の帰りでした。

 「ミッチャン。山はやめたら」

 彼は眼鏡の奥の細い目をさらに細めていつものとてもいい笑顔で、
 
 「ケンチャン、今度一緒に山に行こうよ。山に行けばわかるよ。山に登ったものでないと山の良さはわからないと思うよ」

 これが彼との最後の会話でした。

                                                                                                                              つづく
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