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8(地元を大切に)

 しかし、わたしは岡山民商事務局長という重責と市議予定候補者という重責と二つの重い任務をこなさなければなら

なくなりました。次の市議選は必ず勝たねばならぬという課題と岡山民商を強く大きくするという課題とを両立させな

ければなりません。これはほんとうに難しい課題でした。

 わたしはこう考えました。「まずはなにはともあれ民商だ。最低3年は民商に全力投球だ。但し、地元の行事などは

必ず参加、優先させること。残り1年は次第に市議選に重点を移してゆくこと。そうできるよう民商の体制も準備をし

ておくこと」

 そして、わたしはこの目標にむかってすすむことにしました。こうしてわたしは4年先の岡山市議選を待つことにな

りました。1979(昭54)年の初夏は淋しく暮れてゆき、夕焼けが限りなく美しかったのを覚えています。わたし

は35歳の初夏の夕焼けを目に焼き付けました。

 「やれやれ、さあ、仕事だ」と思った矢先のことです。済んだはずの敗選処理がまだ残っていました。それはおカネ

のことでした。選挙の借金が数百万円もあるというのです。銀行で借金するのにも限度があります。いくらかは借りる

ことができました。でも、印刷代金もたくさん残っています。社長に頼んで分割払いにしてもらいました。わが家は火

の車です。この借金を支払うのに10年かかりました。予定候補者としての冠婚葬祭のお付き合いも増えましたから、

心底みじめでした。しかし、党から立候補の要請があったとはいえ、これはわたしが決めたことですから、わたしの責

任です。そう決意しました。事務局長を引き受けてくださった方はほんとうによくがんばってくださいました。彼のせ

いではありません。このことはとくに強調しておかなければなりません。そして、この時期のわたしを支えてくれた地

元の変化にも感謝しなければなりません。当時奥田西町町内会長、重田貞雄さんが“これまで支援されていた自民党系

の現職市議に、次は地元の田畑をやるからあなたの応援ができないことを許して欲しい”と隣町の市議宅まで謝罪に行

かれたと聞きました。公式に日本共産党の候補者の支援を表明することは当時としては大変なことでした。しかも、材

木店の社長さんです。とても普通では考えられないような締め付けや妨害をはねのけての「田畑支援の表明」でした。

それなのに、奥田連合町内会の他の4町内会長にも田畑への協力を依頼してくださいました。なんという有難いことで

しょう!わたしは今でも心底ありがたかったと思っています。

                                                             
                                                                                                               つづく
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