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『MASHI』 村上 雅則 |
村上 雅則 (むらかみ まさのり) 元 サンフランシスコ・ジャイアンツ。 1944年5月6日生まれ、山梨県出身。 身長183cm、体重83kg。 左投げ、左打ち。 |
『NPB履歴』
法政大第二高。 (1962年在学中入団) 1963年南海・ホークス、 1966年〜1974年南海・ホークス、 1975年阪神・タイガース、 1976年〜1982年日本ハム・ファイターズ。
『MLB履歴』
(野球留学) 1964年〜1965年サンフランシスコ・ジャイアンツ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1968年パ・リーグ最優秀勝率。 1979年NPB通算500試合登板達成(8.29南海戦)。 1979年NPB通算100勝利達成(6.17近鉄戦)。
「MLBデビュー」
1964年9月1日@メッツ戦(シェイ・スタジアム)“救援登板(完了)”。
「MLBデータ」
1964年MLB初勝利(9.29コルト45's戦)“完了登板”。 1964年MLB初セーブ(9.22コルト45's戦)。 1964年MLB初奪三振(9.1メッツ戦)。 1965年MLB初先発登板(8.15フィリーズ戦)。 1964年MLB初被安打(9.1メッツ戦)。 1964年MLB初被本塁打(9.4カブス戦、6回表)。 1964年MLB初失点、初自責点(9.4カブス戦、3回表)。 1964年MLB初与四球(9.9ドジャース戦)。 1965年MLB初敬遠与四球(5.25ブレーブス戦)。 1965年MLB初与死球(5.9ドジャース戦)。 1964年MLB初ボーク(9.18パイレーツ戦)。 1965年MLB初ワイルドピッチ(5.25ブレーブス戦)。 1964年MLB初打席(9.29コルト45's戦)。 1965年MLB初安打(6.29ドジャース戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
1978年NPB-MLB通算500試合登板達成(8.1クラウン戦)。 1979年NPB通算500試合登板(8.29南海戦)。 1978年NPB-MLB通算100勝利達成(9.14南海戦)。 1979年NPB通算100勝利達成(6.17近鉄戦)。 1972年NPB-MLB通算1,000投球回達成(5.7西鉄戦)。 1972年NPB通算1,000投球回達成(8.29西鉄戦)。 1978年NPB-MLB通算1,500投球回達成(8.1クラウン戦)。 1979年NPB通算1,500投球回達成(6.17近鉄戦)。
[村上 雅則、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1963 | 南海 | 3 | 0− 0 | − | 2.0/0 | 1 | 2 | 4.50 |
1966 | 南海 | 46 | 6− 4 | − | 96.1/3 | 33 | 66 | 3.08 |
1967 | 南海 | 41 | 3− 1 | − | 80.1/3 | 36 | 60 | 4.03 |
1968 | 南海 | 40 | 18− 4 | − | 177.2/3 | 47 | 90 | 2.38 |
1969 | 南海 | 31 | 7− 9 | − | 119.0/0 | 60 | 47 | 4.54 |
1970 | 南海 | 32 | 11−11 | − | 191.1/3 | 69 | 75 | 3.25 |
1971 | 南海 | 38 | 14−15 | − | 234.2/3 | 107 | 78 | 4.10 |
1972 | 南海 | 33 | 11− 9 | − | 147.1/3 | 70 | 57 | 4.28 |
1973 | 南海 | 23 | 2− 4 | − | 65.2/3 | 38 | 27 | 5.21 |
1974 | 南海 | 10 | 1− 2 | 0 | 24.2/3 | 5 | 10 | 1.82 |
1975 | 阪神 | 18 | 2− 1 | 1 | 19.1/3 | 11 | 8 | 5.12 |
1976 | 日本ハム | 32 | 1− 0 | 0 | 53.0/0 | 22 | 17 | 3.74 |
1977 | 日本ハム | 61 | 7− 4 | 6 | 112.1/3 | 29 | 78 | 2.32 |
1978 | 日本ハム | 57 | 12−11 | 10 | 130.2/3 | 44 | 59 | 3.03 |
1979 | 日本ハム | 45 | 5− 3 | 11 | 98.2/3 | 46 | 42 | 4.20 |
1980 | 日本ハム | 37 | 2− 3 | 2 | 67.0/0 | 35 | 31 | 4.70 |
1981 | 日本ハム | 17 | 1− 1 | 0 | 20.1/3 | 10 | 10 | 4.43 |
1982 | 日本ハム | 2 | 0− 0 | 0 | 2.0/0 | 2 | 1 | 9.00 |
NPB通算 | 566 | 103−82 | 30 | 1,642.1/3 | 665 | 758 | 3.64 | |
1964 | ジャイアンツ | 9 | 1− 0 | 1 | 15.0/0 | 3 | 15 | 1.80 |
1965 | ジャイアンツ | 45 | 4− 1 | 8 | 74.1/3 | 31 | 85 | 3.75 |
MLB通算 | 54 | 5− 1 | 9 | 89.1/3 | 34 | 100 | 3.43 | |
日米プロ通算 | 620 | 108−83 | 39 | 1,731.2/3 | 699 | 858 | 3.63 |
<通算ホールド NPB-(-)、MLB-(-)>
NPB南海からアメリカ野球留学 搭乗タラップ上段から 村上雅則、高橋博士、田中達彦 ('64.3.10 羽田空港) |
MLBデビューのマウンド 日本人メジャーリーガー第1号の誕生 ('64.9.1 メッツ戦) |
MLB“マッシー・ムラカミ・デー”のプレゼント 初先発登板とスポーツカー ('65.8.15 フィリーズ戦) |
「村上・大リーグ(ジャイアンツ)入り」 〜1日のメッツ戦から〜
[サンフランシスコ 31日AP=共同] 米ナショナル・リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツは31日、南海ホークスから同チームのファーム・チーム、フレスノ・クラブに野球留学中の左腕投手村上雅則選手(20)を呼び上げ、ジャイアンツに加入させると発表した。 村上選手は31日、フレスノを出発ニューヨークに向かったが、1日のニューヨーク・メッツとの試合からジャイアンツのユニホームを着ることになろう。 村上選手は法政二高出身、1昨年全日本高校選抜チームの一員に選ばれ、南海ホークスに入団。 フレスノ・クラブでの成績はリリーフ投手として11勝7敗、49ゲームに出場、106イニングを投げ奪三振157、与えた四球33、防御率1.78の優秀な成績をあげている。 <配信記事>
「村上・大リーグ初登板」 〜対メッツ戦、救援で2三振奪う〜
[ニューヨーク 1日AP] 31日マイナーA級カルフォルニア・リーグのフレスノ・ジャイアンツからサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格した村上雅則投手(南海)が1日夜、当地での対ニューヨーク・メッツ戦に最初の日本人として大リーグ試合に登板した。 8回の1イニングに救援に出て、安打1をゆるしたが、2打者を三振、他を内野ゴロさせ無得点に押さえる好投で大リーグのデビューをかざった。 最初のメッツ打者スミスには連続ストライク2個を投じ、最後はカーブで三振、次のカニザロには安打をゆるしたが、クレーンプールも三振にうちとり、マクミランを遊撃ゴロで退けるあざやかな投球だった。試合は4-1でメッツに敗れたが、ジャイアンツのアルビン・ダーク監督は大リーグ初陣の村上左投手を次のように評している。「もしも彼が今晩のような好投を続ければ、ジャイアンツに長くいてもらうことになろう。彼は若いに似合わず私が見たルーキーの中ではもっとも思いやりがあり、マナーのいいやつだ」 <配信記事>
■1962年9月在学中に鶴岡一人(南海監督)からアメリカ野球留学を約束されて南海と契約。
■1964年3月アメリカに渡り、ジャイアンツ傘下チームに西村省三(投手)、田中達彦(内野手)、高橋博士(捕手)らと共に野球留学。ジャイアンツ傘下チーム、フレスノ(SF-A)での成績は49試合、11勝7敗0セーブ、投球回数106イニング0/0、自責点21、奪三振159、防御率1.78と抜群でカルフォルニア・リーグ(MiLB-A)新人王とベストナインのタイトル。8月に異例とも言える2クラス(ダブルA、トリプルA)飛び越えてジャイアンツに昇格(8.31)、シンデレラ・ボーイの決め手は抜群の球威で奪三振率(K/9)13.50、防御率1.78が評価された。
■1964年9月1日メッツ戦で敵地シェイ・スタジアムのマウンドに登り、日本人メジャーリーガー第1号が弱冠20才118日で誕生。試合(ナイトゲーム)の8回裏に3番手で救援登板、メッツ打線(5番〜8番)のCharley Smith(チャーリー・スミス)を見逃し三振、Chris Cannizzaro(クリス・ガザニロ)に中前安打、Ed Kranpool(エド・クレンプール)を空振り三振、Roy McMillan(ロイ・マクミラン)を遊撃ゴロと勝敗の記録は付かずも投球回数1イニング0/0、被安打1、失点0、与四球0、奪三振2の見事な投球内容でMLBデビューを飾る。なお、9月のメジャー登録枠拡大(セプテンバー・コールアップ)で年俸1,700ドル(シーズン残り期間)。
■1964年9月22日コルト45's戦でMLB初セーブを記録。9回裏無死1、2塁(スコア1対7)に2番手で救援登板、投球回数1イニング0/0、被安打0、失点0、与四球0、奪三振0、打者3と完璧な火消で抑えた(スコア1対7)。
■1964年9月29日コルト45's戦でMLB初勝利を記録。9回表(スコア4対4)から2番手で救援登板、投球回数3イニング0/0、被安打1、失点0、与四球0、奪三振3、打者10と好投、11回裏先頭打者のMatty Alou(マッティ・アルー)のサヨナラ本塁打で嬉しいMLB初勝利を記録(スコア4対5)。なお、10回裏2死走者なしでMLB初打席に入り、Claude Raymond(クロード・レイモンド)に三振。
「二重契約問題」
1964年シーズンオフにジャイアンツは「南海から野球留学中の選手がメジャーリーグ契約するには移籍金(1万ドル)を支払うことで認める」という契約を履行、この事態に選手流出を恐れた南海は横槍を入れ、1965年2月強引に南海とも契約させたことが二重契約問題になる。ジャイアンツの提訴を受けてFord Frick(フォード・フィリック)MLBコミッショナーは抗議文を内村祐之NPBコミッショナーに送付するなど双方の間で選手保有権を巡り紛糾、結局NPB側の提示した妥協案をMLB側が呑む形(MLB側の紳士的対応)でシーズンイン後の4月28日なって「南海は1965年シーズン限定でジャイアンツに移籍を認め、移籍金は返金する」ことで決着した。(双方コミッショナーは合意の大義を『ホームシック条項?を適用』として矛を収めたという逸話がある) シーズンオフに後ろ髪を引かれる思いで帰国を余儀なくされた。なお、ジャイアンツは年俸3万ドル('65)でオファーしていた。
■1965年6月29日ドジャース戦でMLB初安打を記録。3回裏先頭打者で打席に入り、伝説(MVP1回、サイ・ヤング賞3回、パーフェクト1回、ノーヒッター4回、野球殿堂)の大投手Sandy Koufax(サンディ・コーファックス)から3塁前バントヒットを決めた。
■1965年8月15日ジャイアンツの粋な計らいでMLB初先発登板(フィリーズ戦)の試合前、本拠地キャンドルスティック・パークで“マッシー・ムラカミ・デー”の記念式典が催され、サンフランシスコ在留日本人会(キッコーマン醤油)からもスポーツカー(ダットサン・フェアレディ)が贈られた。キャリア唯一のMLB先発登板は投球回数2イニング1/3、打者12、被安打4、被本塁打0、失点3(自責点3)、与四球1、奪三振4と投球が上擦るも試合でチームが逆転(スコア9対15)をプレゼント。
■1972年8月29日NPB西鉄戦での5与死球はNPBゲーム最多与死球記録。投球内容は投球回数9イニング0/0、打者38、被安打6、被本塁打1、失点3(自責点3)、与四死球7(与四球2、与死球5)、奪三振2、ボーク1で敗投手(スコア3対1)。与四死球7(与四球2、与死球5)は西鉄打線の阿部良男(1番)、基満男(3番)、竹之内雅史(4番)に各2与え、梅田邦三(代打G)に1与えた。
■1974年4月13日NPB阪急戦で1球敗投手を記録。スコア4対2の8回裏無死1、2塁で山内新一を救援登板、初球を加藤秀司が投手前にバント、意表を突かれ1塁に悪送球(失策)の間に2塁走者が生還、走者(1、3塁)を残して降板、1塁走者2盗に、なおも野村克也の悪送球(失策)で同点、後続の佐藤道郎も3連打を浴び逆転された(スコア4対6)。
■1976年7月6日NPB南海戦の9回に代打(三振)、7月10日NPBロッテ戦の8回に代打(一直)と登板機会なしの試合出場を記録。
■1977年、1978年パ・リーグ最多試合登板。
■1978年シーズンはリリーフ投手ながら規定投球回数(130イニング0/0)に達し、22セーブポイントを記録。投手は“先発完投”が当たり前とされていた時代にリリーフ投手で驚きの数字を残した。結果的に左肘酷使が故障に繋がり、以後のシーズンに影響した。
■1982年シーズンオフ、日本ハム2軍投手コーチ補佐を打診されるも合意に至らずチームを退団、新しい居場所を探すことになる。
■1983年MLBデビュー当時のジャイアンツ監督('61〜'64)Alvin Dark(アルヴィン・ダーク)を伝手にサンフランシスコに渡り、ジャイアンツの春季キャンプに招待参加、18年ぶりのメジャーリーグ復帰を目指すも、あと一歩で叶わず。ジャイアンツの打撃練習投手(Batting-Practice Pitcher)として1シーズンをホームゲーム専任で務め、世話になったチームに恩返しをした。
■2004年日米交流150周年記念外務大臣表彰を「日本人として初めて米国大リーグに所属(サンフランシスコ・ジャイアンツ)、2年間で5勝1敗9セーブ、100奪三振という成績を残した。当時アメリカは日本人選手の出現に沸き、同氏は“マッシー”という愛称で親しまれた。日本人大リーガー第1号として現在の活躍する日本人選手の流れを創る礎となり、スポーツの分野における日米交流に多大に貢献した」として川口順子外相から受けた(6.8)。
■2012年国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)協会から初の国連難民親善アスリートに任命され(12.18)、UNHCR協会の日本国内での広報、募金活動に協力する(任期2年)。
■2014年「MLBデビュー50周年を祝う会」が東京都内(MLBカフェ東京)で開かれ祝福を受けた(9.1)。
■2023年「マーシャル・グリーン賞」“Marshall Green Award”が日米協会(The America-Japan Society, Inc.)からスポーツ界で初めて授与された。関係者によると「村上雅則が初めてメジャーリーグのマウンドを踏んだのは59年前、その後の野茂英雄、イチロー、ダルビゥシュ有、大谷翔平ら多くの日本人メジャーリーガーが活躍する架け橋を築いた」と功績を評価された。その式典がワシントンDCのサラマンダーホテルで行われた(10.17)。日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)の顧問を務めている。
「NPBデビュー」 1963年6月1日大毎戦(大阪スタヂアム)。
「NPBデータ」 1966年NPB初勝利(4.12東映戦)。 1975年NPB初セーブ(4.6中日戦)。 1963年NPB初奪三振(6.1大毎戦)。
『THE TORNADO』 野茂 英雄 |
野茂 英雄 (のも ひでお) 元 カンザスシティー・ロイヤルズ。 1968年8月31日生まれ、大阪府出身。 身長188cm、体重91kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
成城工業高、 新日本製鉄・堺。 (1989年ドラフト1巡目) 1990年〜1994年近鉄・バファローズ。
『MLB履歴』
(任意引退選手) 1995年〜1998年ロサンゼルス・ドジャース、 1998年ニューヨーク・メッツ、 (1999年シカゴ・カブス) 1999年ミルウォーキー・ブルワーズ、 2000年デトロイト・タイガース、 2001年ボストン・レッドソックス、 2002年〜2004年ロサンゼルス・ドジャース、 2005年タンパベイ・デビルレイズ、 (2005年ニューヨーク・ヤンキース) (2006年シカゴ・ホワイトソックス) 2008年カンザスシティー・ロイヤルズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1990年パ・リーグ新人王。 1990年パ・リーグ最優秀防御率。 1990年、1991年、1992年、1993年パ・リーグ最多勝利。 1990年パ・リーグ最優秀勝率。 1990年、1991年、1992年、1993年パ・リーグ最多奪三振。 1990年パ・リーグMVP。 1990年沢村栄治賞。 2014年野球体育博物館・競技者表彰(野球殿堂入り)。 1993年新人から4年連続最多勝利達成(10.17西武戦)。 1990年NPBシーズン“二桁奪三振試合”21試合記録(10.10西武戦)。 1993年NPB通算1,000奪三振871イニング目達成記録(8.28オリックス戦)。
『MLBタイトル、表彰、記録』
1995年ナ・リーグ新人王。 1995年ナ・リーグ最多奪三振(236奪三振)。 2001年ア・リーグ最多奪三振(220奪三振)。 1995年6月、1996年9月ナ・リーグ月間MVP。 1996年“ノーヒットノーラン試合”達成(9.17 ロッキーズ戦)。 2001年“ノーヒットノーラン試合”達成(4.4 オリオールズ戦)。 2001年“準完全試合”達成(5.25ブルージェイズ戦)。 1995年オールスターゲーム出場。 2003年MLB通算100勝利達成(4.20ジャイアンツ戦)。 1997年MLB新人から3年連続200奪三振達成(8.28アスレチックス戦)。 2002年MLB通算1,500奪三振達成(6.21レッドソックス戦)。 MLB通算奪三振率8.73(1,500投球回以上で歴代8位)を記録。
「MLBデビュー」
1995年5月2日@ジャイアンツ戦(キャンドルスティック・パーク)“先発登板”。
「MLBデータ」
1995年MLB初勝利(6.2メッツ戦)“先発登板”。 1995年MLB初奪三振(5.2ジャイアンツ戦)。 1995年MLB初完投、初完封(6.24ジャイアンツ戦)。 2000年MLB初開幕投手(4.3アスレチックス戦)。 1995年MLB初牽制刺(9.5フィリーズ戦)。 1995年MLB初失策(5.23メッツ戦)。 1995年MLB初得点(7.5ブレーブス戦)。 1995年MLB初打点(8.5ジャイアンツ戦)。 1998年MLB初本塁打(4.28ブルワーズ戦)。 1999年MLB初三塁打(6.5ロッキーズ戦)。 1996年MLB初二塁打(6.9レッズ戦)。 1995年MLB初犠打(5.7ロッキーズ戦)。 1995年MLB初犠飛(9.2カブス戦)。 1999年MLB初代走(6.27パイレーツ戦)。
「MLB通算記録」
2005年MLB10年在籍資格取得(5.15投手1年相当172日在籍)。 1998年MLB通算100試合先発登板達成(4.28ブルワーズ戦)。 1999年MLB通算150試合先発登板達成(9.30パイレーツ戦)。 2001年MLB通算200試合先発登板達成(7.15エクスポズ戦)。 2003年MLB通算250試合先発登板達成(4.5パドレス戦)。 2005年MLB通算300試合先発登板達成(4.9アスレチックス戦)。 1999年MLB通算50勝利達成(5.9ジャイアンツ戦)。 2003年MLB通算100勝利達成(4.20ジャイアンツ戦)。 2000年MLB通算1,000投球回達成(5.5ツインズ戦)。 2002年MLB通算1,500投球回達成(8.5フィリーズ戦)。 1997年MLB通算500奪三振達成(4.25マーリンズ戦)。 1999年MLB通算1,000奪三振達成(9.8ダイヤモンドバックス戦)。 2002年MLB通算1,500奪三振達成(6.21レッドソックス戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
1996年NPB-MLB通算100勝利達成(7.5ロッキーズ戦)。 2001年NPB-MLB通算150勝利達成(4.26ツインズ戦)。 2005年NPB-MLB通算200勝利達成(6.15ブルワーズ戦)。 1994年NPB通算1,000投球回達成(5.31西武戦)。 1997年NPB-MLB通算1,500投球回達成(4.25マーリンズ戦)。 1999年NPB-MLB通算2,000投球回達成(9.24アストロズ戦)。 2002年NPB-MLB通算2,500投球回達成(7.1ダイヤモンドバックス戦)。 2005年NPB-MLB通算3,000投球回達成(6.21ヤンキース戦)。 1993年NPB通算1,000奪三振達成(8.28オリックス戦)。 1996年NPB-MLB通算1,500奪三振達成(5.17フィリーズ戦)。 1998年NPB-MLB通算2,000奪三振達成(6.25オリオールズ戦)。 2001年NPB-MLB通算2,500奪三振達成(6.16ブレーブス戦)。 2003年NPB-MLB通算3,000奪三振達成(9.25パドレス戦)。 2002年NPB-MLB通算100度目の1試合二桁奪三振を記録(8.5フィリーズ戦)。
[野茂 英雄、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1990 | 近鉄 | 29 | 18− 8 | 0 | 235.0/0 | 76 | 287 | 2.91 |
1991 | 近鉄 | 31 | 17− 11 | 1 | 242.1/3 | 82 | 287 | 3.05 |
1992 | 近鉄 | 30 | 18− 8 | 0 | 216.2/3 | 64 | 228 | 2.66 |
1993 | 近鉄 | 32 | 17− 12 | 0 | 243.1/3 | 100 | 276 | 3.70 |
1994 | 近鉄 | 17 | 8− 7 | 0 | 114.0/0 | 46 | 126 | 3.63 |
NPB通算 | 139 | 78− 46 | 1 | 1,051.1/3 | 368 | 1,204 | 3.15 | |
1995 | ドジャース | 28 | 13− 6 | 0 | 191.1/3 | 54 | 236 | 2.54 |
1996 | ドジャース | 33 | 16− 11 | 0 | 228.1/3 | 81 | 234 | 3.19 |
1997 | ドジャース | 33 | 14− 12 | 0 | 207.1/3 | 98 | 233 | 4.25 |
2008 | ドジャース | 12 | 2− 7 | 0 | 67.2/3 | 38 | 73 | 5.05 |
メッツ | 17 | 4− 5 | 0 | 89.2/3 | 48 | 94 | 4.82 | |
シーズン計 | 29 | 6− 12 | 0 | 157.1/3 | 86 | 167 | 4.92 | |
1999 | ブルワーズ | 28 | 12− 8 | 0 | 176.1/3 | 89 | 161 | 4.54 |
2000 | タイガース | 32 | 8− 12 | 0 | 190.0/0 | 100 | 181 | 4.74 |
2001 | レッドソックス | 33 | 13− 10 | 0 | 198.0/0 | 99 | 220 | 4.50 |
2002 | ドジャース | 34 | 16− 6 | 0 | 220.1/3 | 83 | 193 | 3.39 |
2003 | ドジャース | 33 | 16− 13 | 0 | 218.1/3 | 75 | 177 | 3.09 |
2004 | ドジャース | 18 | 4− 11 | 0 | 84.0/0 | 77 | 54 | 8.25 |
2005 | デビルレイズ | 19 | 5− 8 | 0 | 100.2/3 | 81 | 59 | 7.24 |
2008 | ロイヤルズ | 3 | 0− 0 | 0 | 4.1/3 | 9 | 3 | 18.69 |
MLB通算 | 323 | 123−109 | 0 | 1,976.1/3 | 932 | 1,918 | 4.24 | |
日米プロ通算 | 462 | 201−155 | 1 | 3,027.2/3 | 1,300 | 3,122 | 3.86 |
<通算ホールド NPB-(-)、MLB-0> <シーズン中途移籍 '98.6.4〜メッツ>
MLBナ・リーグで “ノーヒットノーラン試合”達成 ('96.9.17 ロッキーズ戦) |
MLBア・リーグで “ノーヒットノーラン試合”達成 ('01.4.4 オリオールズ戦) |
MLB通算100勝利達成 ('03.4.20 ジャイアンツ戦) |
MLB通算1,500奪三振達成 ('02.6.21 レッドソックス戦) |
MLBオールスターゲーム ルーキーで先発登板 ('95.7.11 アーリントン) |
MLBキャリア初の 開幕投手 ('00.4.3 アスレチックス戦) |
NPB-MLB(日米プロ) 通算200勝利達成 ('05.6.15 ブルワーズ戦) |
NPB-MLB(日米プロ) 通算3,000投球回達成 ('05.6.21 ヤンキース戦) |
NPB-MLB(日米プロ) 通算3,000奪三振達成 ('03.9.25 パドレス戦) |
■1990年4月10日NPBデビューの西武戦は投球回数6イニング0/0、被安打7、被本塁打0、失点5(自責点4)、与四球7、奪三振7、打者32、投球数158、失策1、ワイルドピッチ1、の敗投手(スコア5対2)。1回表いきなり四球、失策、四球で無死満塁の大ピンチ、ギアを入れ替え4番打者の清原和博をカウント2-1から真ん中低めのストレートで空振り三振(プロ初アウト)、この回1失点で切り抜けたが制球が定まらずホロ苦いNPBデビューとなる。
■1991年7月17日NPB西武戦でキャリア唯一のセーブを記録。オールスターゲーム直前の首位攻防2連戦、初戦(7.16)に6回裏から救援登板、登板回数4イニング0/0、被安打2、失点0、与四球1、奪三振5、打者14で勝利投手(スコア6対2)。2戦目(7.17)の7回裏に小野和義(先発)の負傷降板を見て、通常は登板予定なしも寡黙に登板志願の投球練習をブルペンで開始、「監督、野茂の球が唸ってます!」の気迫は仰木彬監督に連日の救援登板を決断。9回裏(スコア2対1)から救援登板、投球回数1イニング0/0、被安打1、失点0、与四球1、奪三振0、打者5、渾身の投球数18で抑え込んだ。
■1993年8月28日NPB通算1,000奪三振達成(オリックス戦)871イニング目は石井一久(西武)913イニング目、江夏豊(西武)940イニング目、伊良部秀輝(阪神)997イニング1/3目、井川慶(オリックス)1,058イニング目、松坂大輔(中日)1,070イニング2/3目を遥かに超えるNPB最速達成記録。
■1994年7月1日NPB西武戦での16与四球(毎回)はNPBゲーム最多与四球記録。投球内容は投球回数9イニング0/0、被安打5、失点3(自責点3)、与四球16、奪三振8、打者45、投球数191(ストライク86)の疲労困憊ヘトヘトで完投勝利(スコア8対3)。
■1994年シーズンオフの契約交渉が難航して近鉄を退団(任意引退選手)。1995年2月13日ドジャースとマイナーリーグ契約(契約金200万ドル、メジャー昇格で年俸10万9,000ドルのスプリット契約)。
■1995年5月2日メジャー開幕7戦目のジャイアンツ戦に先発登板してMLBデビューを果たす。投球内容は投球回数5イニング0/0、被安打1、失点0、与四球4、奪三振7、打者19、投球数91(ストライク51)と好投もマウンドをスコア/0対0のまま後続に託したため勝敗は付かず。
■1995年7月11日MLBオールスターゲーム(テキサス州アーリントン/ボールパーク・イン・アーリントン)ではルーキーながらナ・リーグ先発投手に抜擢、投球回数2イニング0/0、打者6、被安打1、失点0、与四球0、奪三振3の活躍。なお、相手ア・リーグの先発投手はマリナーズ所属のRandy Johnson(ランディー・ジョンソン/ジャイアンツ)で投球回数2イング0/0、打者6、被安打0、失点0、与四球1、奪三振3と互角に投げ合い観客を沸かし、その後も認め合う関係で多くの逸話を生んだ。なお、ルーキーで先発投手に選ばれたのはDave Stenhouse(デーブ・ステンハウス/'62、ワシントン・セネターズ)、Mark Fidrych(マーク・フィドリッチ/'76、タイガース)、Fernando Valenzuela(フェルナンド・バレンズエラ/'81、ドジャース)に続きMLB史上4人目の快挙。
■1995年8月10日カージナルス戦で“没収試合(Forfeited Game)”を経験。ドジャース1点を追う(スコア2対1)9回裏、先頭打者Raul Mondesi(ラウル・モンデシー)三振、審判の度々のドジャース不利の判定に抗議した Tommy LaSorda(トミー・ラソーダ)監督と共に退場宣告。超満員(Att.53,361)の球場は興奮したファンがこの日(Giveaway Day)にプレゼントされた球団ロゴ入りのボールをフィールドに次々と投げ入れ暴動状態、審判団(HP-Jim Quick、1B-Bob Davidson、2B-Bill Hohn、3B-Larry Poncino)が試合続行は不可能として没収試合。試合で野茂英雄が先発登板、投球回数8イニング0/0、被安打6、被本塁打2、失点2(自責点2)、与四球3、奪三振7、打者32、投球数108(ストライク66)と好投、記録は認められるも敗投手。
■1995年ナ・リーグ新人王のタイトルはルーキーシーズンの完封試合3、奪三振236、奪三振率(K/9)11.10、被打率0.182、被安打率(H/9)5.83はナ・リーグ1位、防御率2.54はナ・リーグ2位と抜群の成績。なお、ナ・リーグ新人王タイトルを競ったのがルーキー資格を持つ、Chipper Jones(チッパー・ジョンズ)でブレーブス一筋('93〜'12)、背番号10は永久欠番のスーパースター。
■1995年シーズンはMLB選手会ストライキの影響でメジャー開幕も1ヶ月遅れの4月25日となり、ファンも離れてメジャーリーグの危機に直面。そこに、独特の投球フォーム「The Tornado/トルネード」からのフォークボールで次々と三振を奪う若武者にファンは熱狂し、投球フォームの真似をする「Nomo-mania/ノモマニア」など社会現象となる。メジャーリーグの危機を救った最大の功労者としてBill Clinton(ビル・クリントン)大統領から「ノモは日本の最高の輸出品」と賛辞を送られた。アメリカでの成功はPeter O'Malley(ピーター・オマリー)ドジャース球団オーナーの理解、「ヒデオは私の息子だ!」と擁護したTommy LaSorda(トミー・ラソーダ)ドジャース監督の信頼が大きな支えとなった。
■1996年6月15日ブレーブス戦でトリプルプレー成立をアシスト。1回裏無死1塁、2塁で3番打者Chipper Jones(チッパー・ジョンズ)はショートポップフライ、走者タッチアップ帰塁が出来ず、ボールは2塁、1塁と転送されトリプルプレー。
■1996年9月17日初の“ノーヒットノーラン試合”達成(ロッキーズ戦)、バッテリーはMike Piazza(マイク・ピアッツァ)。ロッキーズ本拠地クアーズ・フィールドはコロラド州デンバーにある標高1,600mの高地で「Batter's Heaven/打者天国」と言われる球場。加えて、当日は降雨で2時間も試合開始が遅れ、気温も10℃の最悪条件下でも集中力を維持、「クアーズの奇跡」と賞賛されるMLB史上に残る快挙を達成。投球内容は投球回数9イニング0/0、被安打0、失点0、与四球4(与死球0)、奪三振8、打者30、投球数110(ストライク66)、打球18(ゴロ8、フライ10)、スコア/9対0。
■1997年8月28日MLBデビューから3年連続200奪三振達成(アスレチックス戦)はDwight Gooden(ドワイト・グッデン/ヤンキース)が1984年デビュー(メッツ所属時)から記録したのに次いでMLB史上2人目の快挙。
■1999年6月27日パイレーツ戦でキャリア初の“代走”でのMLB試合出場を記録。
■2000年4月3日アスレチックス戦(@ネットワーク・アソシエイツ・コロシアム)で開幕投手を日本人投手として初めて任され、投球回数7イニング0/0、被安打3、被本塁打3、失点3(自責点3)、与四球3、奪三振8、打者27、投球数106(ストライク65)と一発攻勢を浴びながら勝投手(スコア7対4)。その後、2003年3月31日ダイヤモンドバックス戦(@バンク・ワン・ボールパーク)でRandy Johnson(ランディ・ジョンソン)と投げ合い、投球回数9イニング0/0、被安打4、失点0、与四球1、奪三振7、打者30、投球数103(ストライク70)の完封で勝投手(スコア8対0)。2004年4月5日パドレス戦(ドジャー・スタジアム)は投球回数5イニング0/0、被安打7、被本塁打2、失点7(自責点7)、与四球2(与死球1)、奪三振1、打者25、投球数76(ストライク43)と打ち込まれ敗投手(スコア8対2)。MLBキャリアで3度の開幕投手を務めた。
■2001年4月4日2度目の“ノーヒットノーラン試合”達成(オリオールズ戦)、バッテリーはJason Varitek(ジェイソン・バリテック)。レッドソックスに移籍後の初登板は敵地オリオールパーク・アット・カムデンヤード。今回も停電で45分試合開始が遅れる中での快挙達成。投球内容は投球回数9イニング0/0、被安打0、失点0、与四球3(与死球0)、奪三振11、打者30、投球数110(ストライク69)、打球16(ゴロ8、フライ8)、ワイルドピッチ1、スコア/3対0。なお、MLB両リーグでのノーヒッター達成はCy Young(サイ・ヤング/インディアンス)、Jim Bunning(ジム・バニング/フィリーズ)、Nolan Ryan(ノーラン・ライアン/レンジャース)に次いで4人目、その後Randy Johnson(ランディー・ジョンソン/ジャイアンツ)が達成するもMLB史上で僅か5人のみが偉業達成。
■2001年5月25日“準完全試合”達成(ブルージェイズ戦)、バッテリーはジェイソン・バリテック。本拠地フェンウェイ・パークで投球回数9イニング0/0、被安打1、失点0、与四死球0、奪三振14、打者28、投球数117(ストライク77)、打球14(ゴロ11、フライ3)の完封試合(スコア0対4)。4回表先頭打者Shannon Stewart(シャノン・ステワート)に初球を打たれ、左中間の飛球(ラインドライブ)に不運な守備もあって、唯一の出塁(2塁打)を許した。6回表1アウトから連続7奪三振など別次元のピッチングで本当に惜しい快記録。
■2001年シーズン与四球96、奪三振220、奪三振率(K/9)10.00がア・リーグ1位でピッチングの特徴が表れた。
■2002年6月21日MLB通算1,500奪三振を231試合目(1,436イニング2/3)の古巣レッドソックス戦で達成。なお、1999年9月8日MLB通算1,000奪三振達成(ダイヤモンドバックス戦)の147試合目はKerry Wood(ケリー・ウッド/カブス)136試合目、Roger Clemens(ロジャー・クレメンス/ヤンキース)143試合目、Dwight Gooden(ドワイト・グッデン/ヤンキース)145試合目に次いでMLB史上4位、Randy Johnson(ランディー・ジョンソン/ジャイアンツ)150試合目を超えるスピード達成。
■2003年9月25日NPB-MLB(日米プロ)通算3,000奪三振達成(パドレス戦)は条件相違があるもNPB(日本プロ野球)では金田正一(巨人)4,490、米田哲也(近鉄)3,388、小山正明(大洋)3,159、鈴木啓示(近鉄)3,061の僅か4人が達成、三振奪取の6割をMLB(メジャーリーグ)で記録したのは驚異。なお、1990年4月10日NPB初奪三振(西武戦)。
■2005年7月デビルレイズから戦力外となり、ヤンキースとマイナーリーグ契約するも昇格は叶わず。2006年3月ホワイトソックスとマイナーリーグ契約で昇格目指すも6月に解雇、痛めていた右肘の遊離軟骨除去手術でシーズンをリハビリに費やす。2007年10月ベネズエラのウインターリーグではラカラカスでプレイ、復帰に手応えを得る。
■2008年1月ロイヤルズとマイナーリーグ契約。4月ロイヤルズに昇格ベンチ入り、復帰登板のヤンキース戦(4.10)は前回ブルージェイズ戦('05.7.15)から実に1,000日ぶりのメジャーマウンドとなる。中継ぎでの登板に結果が出ず、ロイヤルズのDFA行使で戦力外となる(4.20)。その後のインタビューで「自分の中では、まだまだやりたい気持ちは強いが、プロ野球選手としてのパフォーマンスは出せないと思った。中途半端のままでは、周りに迷惑をかけるだけだと思った」と悔いを残しての引退を表明(7.17)、不死鳥も翼を休めた。
■2008年NPB-MLB(日米プロ)通算で奪三振3,122(NPB1,204、MLB1,918)、登板回数3,027イニング2/3(NPB1,051.1/3、MLB1,976.1/3)の奪三振率9.28(NPB10.31、MLB8.73)はNPB通算2,500奪三振以上達成者で比較しても江夏豊(西武)8.41、工藤公康(西武)7.71、金田正一(巨人)7.31、稲尾和久(西鉄)6.44、梶本隆夫(阪急)6.30、鈴木啓示(近鉄)5.99、米田哲也(近鉄)5.94、小山正明(大洋)5.80と驚異のK/9数値、先発投手のキャリアで奪三振数が投球回数を上回るのは極めて稀で“ドクターK”の証。なお、条件相違があるも、MLBで通算の登板回数2,000イニング以上で奪三振率(K/9)が9.00を超えるのはRandy Johnson(ランディ・ジョンソン/ジャイアンツ)10.61、Pedro Martinez(ペドロ・マルチネス/フィリーズ)10.04、Nolan Ryan(ノーラン・ライアン/レンジャーズ)9.55、Sandy Koufax(サンディ・コーファックス/ドジャース)9.28の僅か4人。MLBシーズン奪三振率で1995年11.10(ナ・リーグ1位)、2001年10.00(ア・リーグ1位)を記録、両リーグで1位となる快挙。
■2009年8月から毎年、NOMOベースボール・クラブ(創部2003年、社会人野球/クラブチーム)が推進する青少年育成活動の一環として日本の中学生選抜チーム“Junior All Japan”を結成、野球環境の充実したロサンゼルス郊外のコンプトンにツアー遠征、現地のアメリカチーム(野球アカデミー選抜)との日米親善少年野球大会に参加、メジャーリークの゙試合観戦、ホームステイでホストファミリーとの触れ合いなど貴重な実体験を提供。なお、2012年(4回目)ではアメリカチームの監督を長谷川滋利(マリナーズ)、投手コーチを大塚晶則(レンジャーズ)らが引き受けて協力した。
■2010年アメリカ野球情報サイト、Bleacher Report(ブリーチャー・レポート)でMLB史上に残る個性的なフォーム歴代15人を特集、1位のLuis Tiant(ルイス・ティアント/カルフォルニア・エンゼルス)に次ぐ2位で、4位に岡島秀樹(レッドソックス)が紹介される。
■2011年11月“ドジャータウン”の呼称で親しまれたドジャースの元キャンプ施設、フロリダ州ベロビーチの総合スポーツ施設の共同オーナーにドジャース所縁のPeter O'Malley(ピーター・オマリー/元球団オーナー)、朴賛浩(パク・チャンホ/パイレーツ)らと共に就任。
■2013年8月10日ドジャースタジアムで対レイズ戦の始球式を務めた。トルネード投法でファンを熱狂させた懐かしい背番号16のユニホーム姿にスタンドからは大歓声、観客(Att.52,619)に彼の首振り人形(Bobblehead)が先着で50,000個プレゼントされた。
■2013年アメリカ野球殿堂入り候補にノミネートされる(11.26)。2014年度の選考対象としてGreg Maddux(グレッグ・マダックス/ドジャース)、Tom Glavine(トム・グラビン/ブレーブス)、Frank Thomas(フランク・トーマス/アスレチックス)らと共に36人(前17、新19)の候補に名を連ねた。選出は極めて狭き門で候補にノミネートされるだけでも非常に名誉な事とされる。また、日本の野球殿堂入り候補にもノミネートされ(11.29)、2014年度からの選考対象として清原和博(オリックス)、桑田真澄(パイレーツ)、鈴木尚典(横浜)らと共に22人(前18、新4)の候補に加わった。
■2014年の投票で6票獲得(得票率1.1パーセント)、アメリカ野球殿堂入りは届かなかった(1.8)。キャリア数字では及ばない(300勝、3,000安打、500本塁打が目安)も日本人選手のパイオニア、2度のノーヒット・ノーラン達成、1994年のストライキで停滞ムードが漂ったメジャーで“トルネード旋風”を巻き起こして救世主的な働きが評価されて候補に上がった。「野茂英雄はメジャーへ新たな道を切り開いた偉大な選手であり、人格者でもあった。日本のJackie Robinson(ジャッキー・ロビンソン/ブルッリン・ドジャース)だ。殿堂入りする資格は十分あった」とTommy LaSorda(トミー・ラソーダ)元ドジャース監督も残念がった。
■2014年日本の野球体育博物館、競技者表彰(野球殿堂入り)が決まる(1.17)。野球殿堂入り候補1年目での選出は1960年Victor Starffin(ヴィクトル・スタルヒン/トンボ・ユニオン)、1994年王貞治(巨人)以来3人目の快挙。野球殿堂入り年齢が45才4ヵ月は川上哲治(巨人)の45才8ヵ月を更新。
■2015年大リーグのスカウトらを支援する団体の年次総会がロサンゼルスで開かれ(1.17)、「ベースボール・パイオニア賞」を朴賛浩(パク・チャンホ/パイレーツ)と共に日本、韓国から大リーグ挑戦への流れを作ったとして受賞(式は所要で欠席)。受賞式でPeter O'Malley(ピーター・オマリー/元球団オーナー)は「彼は真のパイオニア、初めてキャンプに来た時から恐れるものは何もなかった、想像以上の活躍だった」と称え、朴賛浩(パク・チャンホ/パイレーツ)は「彼の活躍は日本人に夢を与えた、自分にとってもメジャーに上がるというモチベーションになった」と感謝した。
■2016年パドレスのアドバイザーに就任(2.11)。選手育成と編成部門、環太平洋地域での球団の事業展開に携わる。パドレスを買収('12.8)した共同グループのPeter O'Malley(ピーター・オマリー)一族やアイク生原(“IKE”は昭宏の愛称)の娘婿のAcey Kohrogi(エーシー興梠)など元ドジャースとの深い縁でフロント入りした。
「NPBデビュー」 1990年4月10日西武戦(藤井寺球場)。
「NPBデータ」 1990年NPB初勝利(4.29オリックス戦)。 1991年NPB初セーブ(7.17西武戦)。 1990年NPB初奪三振(4.10西武戦)。
「日本プロ野球名球会」 1990年4月29日NPB初勝利(オリックス戦)を起点に2005年6月15日NPB-MLB通算200勝利達成(ブルワーズ戦)で資格クリア、2009年入会。
「野球日本代表」 1988年ソウル・オリンピック(オープン競技)出場、銀メダル。
「日本プロスポーツ大賞」 1990年大賞受賞。
『MAC』 鈴木 誠 |
マック 鈴木 (Mac Suzuki) 鈴木 誠 元 カンザスシティー・ロイヤルズ。 1975年5月31日生まれ、兵庫県出身。 身長191cm、体重88kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
(2002年ドラフト2巡目) 2003年〜2004年オリックス・ブルーウェーブ。
『MLB履歴』
滝川第二高(中退)。 (NPB未経験) 1996年、1998年〜1999年シアトル・マリナーズ、 (1999年ニューヨーク・メッツ) 1999年〜2001年カンザスシティー・ロイヤルズ、 2001年コロラド・ロッキーズ、 2001年ミルウォーキー・ブルワーズ、 2001年〜2002年カンザスシティー・ロイヤルズ。 (2005年オークランド・アスレチックス) (2006年シカゴ・カブス)
「MLBデビュー」
1996年7月7日@レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド)“救援登板(中継ぎ)”。
「MLBデータ」
1998年MLB初勝利(9.14ツインズ戦)“先発登板”。 2001年MLB初ホールド(8.2マーリンズ戦)。 1996年MLB初奪三振(7.7レンジャーズ戦)。 2000年MLB初完投、初完封(8.19オリオールズ戦)。
[マック 鈴木、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
2003 | オリックス | 29 | 4− 9 | 1 | 108.1/3 | 85 | 85 | 7.06 |
2004 | オリックス | 24 | 1− 6 | 0 | 48.1/3 | 46 | 45 | 8.57 |
NPB通算 | 53 | 5−15 | 1 | 156.2/3 | 131 | 130 | 7.53 | |
1995 | マリナーズ | − | − | − | − | − | − | − |
1996 | マリナーズ | 1 | 0− 0 | 0 | 1.1/3 | 3 | 1 | 20.25 |
1998 | マリナーズ | 6 | 1− 2 | 0 | 26.1/3 | 21 | 19 | 7.18 |
1999 | マリナーズ | 16 | 0− 2 | 0 | 42.0/0 | 44 | 32 | 9.43 |
ロイヤルズ | 22 | 2− 3 | 0 | 68.0/0 | 39 | 36 | 5.16 | |
シーズン計 | 38 | 2− 5 | 0 | 110.0/0 | 83 | 68 | 6.79 | |
2000 | ロイヤルズ | 32 | 8−10 | 0 | 188.2/3 | 91 | 135 | 4.34 |
2001 | ロイヤルズ | 15 | 2− 5 | 0 | 56.0/0 | 33 | 37 | 5.30 |
ロッキーズ | 3 | 0− 2 | 0 | 6.1/3 | 11 | 5 | 15.63 | |
ブルワーズ | 15 | 3− 5 | 0 | 56.0/0 | 33 | 47 | 5.30 | |
シーズン計 | 33 | 5−12 | 0 | 118.1/3 | 77 | 89 | 5.86 | |
2002 | ロイヤルズ | 7 | 0− 2 | 0 | 21.0/0 | 21 | 15 | 9.00 |
MLB通算 | 117 | 16−31 | 0 | 465.2/3 | 296 | 327 | 5.72 | |
日米プロ通算 | 170 | 21−46 | 1 | 622.1/3 | 427 | 457 | 6.18 |
<通算ホールド NPB-0、MLB-1> <シーズン中途移籍 '99.6.18〜ロイヤルズ、'01.6.24〜ロッキーズ、'01.7.12〜ブルワーズ>
■1992年サリナス(独立-A)のクラブハウスボーイ(雑用係)からスタートして弱冠17才でプロデビュー、1993年サンバナディーノ(独立-A)を経て9月マリナーズとマイナーリーグ契約、1994年マリナーズ傘下チームのジャクソンビル(SEA-AA)、1995年AZLマリナーズ(SEA-R)、リバーサイド(SEA-A)とキャリアを積んで9月マリナーズに昇格も登板機会なし、1996年ポートシティー(SEA-AA)から7月マリナーズに再昇格し夢にみたメジャー初登板を僅か1イニング1/3のみの「A cup of coffee/束の間のメジャー生活」ながら果たす。1997年タコマ(SEA-AAA)でプレイ、1998年マリナーズに再々昇格してMLB初勝利とキャリアは当にアメリカン・ドリーム。
■1999年5月7日ヤンキース戦(@ヤンキー・スタジアム)で初の日本人先発投手対決が実現した。マック鈴木は投球回数5イニング1/3、被安打5、被本塁打1、失点7(自責点4)、与四球5(与死球1)、奪三振3、打者26、投球数107(ストライク57)と大乱調、伊良部秀輝は投球回数7イニング0/0、被安打4、被本塁打1、失点1(自責点1)、与四死球0、奪三振5、打者26、投球数93(ストライク61)、ワイルドピッチ1と好投、試合はヤンキースが勝利して伊良部秀輝に軍配(スコア1対10)。
■2000年7月2日タイガース戦(カウフマン・スタジアム)で2度目の日本人先発投手対決が実現した。マック鈴木は投球回数7イニング0/0、被安打4、被本塁打1、失点2(自責点2)、与四球4(与死球0)、奪三振8、打者29、投球数118(ストライク69)と好投、野茂英雄は投球回数7イニング0/0、被安打3、被本塁打0、失点0、与四球1(与死球0)、奪三振7、打者24、投球数80(ストライク50)と上回る内容、試合はタイガースが勝利して野茂英雄に軍配(スコア2対0)。
■2002年6月19日エクスポズ戦(@オリンピック・スタジアム)で3度目の日本人先発投手対決が実現した。マック鈴木は投球回数5イニング0/0、被安打5、被本塁打0、失点4(自責点4)、与四球2(与死球0)、奪三振5、打者20、投球数83(ストライク45)、ボーク1に対し、大家友和は投球回数7イニング0/0、被安打9、被本塁打0、失点3(自責点2)、与四球0(与死球1)、奪三振1、打者31、投球数87(ストライク62)、試合はエクスポズが勝利して大家友和に軍配(スコア3対6)。
■2004年11月近鉄、オリックス合併球団のオリックスと新規参入球団の楽天との選手分配ドラフト会議では入団2年目までの選手の身分保障、オリックス入団がドラフト指名選手では異例の3年契約ということもありオリックスに分配される。2005年1軍での登板機会ないままシーズンオフ。
■2005年12月アスレチックスとマイナーリーグ契約、2006年アスレチックス春季キャンプに招待参加も結果が出ずリリース(4.6)。4月メキシカンリーグ(LMB)ティファナと契約、オールスターゲームに出場するなど活躍。2006年8月カブスとマイナーリーグ契約、カブス傘下チームのアイオワ(CHC-AAA)に所属してプレイもメジャー昇格ならず。
■2007年7月台湾プロ野球(CPBL)のLa New・熊(ラニュー・ベアーズ)と契約、2008年5月まで所属して通算成績は13試合、3勝2敗5セーブ、投球回数25イニング2/3、自責点15、奪三振21、防御率5.26。
■2011年関西独立リーグの新チーム、神戸・サンズの監督兼選手に就任(1.27)。チームの前期優勝を指揮するなど話題となるもシーズン終了までの契約で退団(12.2)。
「NPBデビュー」 2003年5月2日@西武戦(西武ドーム)。
「NPBデータ」 2003年NPB初勝利(6.10近鉄戦)。 2003年NPB初セーブ(5.19ロッテ戦)。 2003年NPB初奪三振(5.2西武戦)。
『SHIGGY』 長谷川 滋利 |
長谷川 滋利 (はせがわ しげとし) 元 シアトル・マリナーズ。 1968年8月1日生まれ、兵庫県出身。 身長180cm、体重80kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
東洋大姫路高、 立命館大。 (1990年ドラフト1巡目) 1991年〜1996年オリックス・ブルーウェーブ。
『MLB履歴』
(金銭トレード) 1997年〜2001年アナハイム・エンゼルス、 2002年〜2005年シアトル・マリナーズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1991年パ・リーグ新人王。
『MLBタイトル、表彰、記録』
2003年オールスターゲーム出場。 2005年MLB通算500試合登板達成(7.24インディアンス戦)。
「MLBデビュー」
1997年4月5日インディアンス戦(エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)“先発登板”。
「MLBデータ」
1997年MLB初勝利(4.15ヤンキース戦)“中継ぎ登板”。 1998年MLB初セーブ(6.4マリナーズ戦)。 1999年MLB初ホールド(5.1ホワイトソックス戦)。 1997年MLB初奪三振(4.5インディアンス戦)。
「MLB通算記録」
2005年MLB通算500試合登板達成(7.24インディアンス戦)。 2003年MLB通算50ホールド達成(5.23ツインズ戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2003年NPB-MLB通算500試合登板達成(5.10ホワイトソックス戦)。 2004年NPB-MLB通算100勝利達成(7.18インディアンス戦)。 1997年NPB-MLB通算1,000投球回達成(9.7タイガース戦)。 2004年NPB-MLB通算1,500投球回達成(5.4ツインズ戦)。
[長谷川 滋利、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1991 | オリックス | 28 | 12− 9 | 1 | 185.0/0 | 73 | 111 | 3.55 |
1992 | オリックス | 24 | 6− 8 | 1 | 143.1/3 | 52 | 86 | 3.27 |
1993 | オリックス | 23 | 12− 6 | 0 | 159.2/3 | 48 | 86 | 2.71 |
1994 | オリックス | 25 | 11− 9 | 1 | 156.1/3 | 54 | 86 | 3.11 |
1995 | オリックス | 24 | 12− 7 | 0 | 171.0/0 | 55 | 91 | 2.89 |
1996 | オリックス | 18 | 4− 6 | 1 | 87.2/3 | 52 | 55 | 5.34 |
NPB通算 | 142 | 57−45 | 4 | 903.0/0 | 334 | 515 | 3.33 | |
1997 | エンゼルス | 50 | 3− 7 | 0 | 116.2/3 | 51 | 83 | 3.93 |
1998 | エンゼルス | 61 | 8− 3 | 5 | 97.1/3 | 34 | 73 | 3.14 |
1999 | エンゼルス | 64 | 4− 6 | 2 | 77.0/0 | 42 | 44 | 4.91 |
2000 | エンゼルス | 66 | 10− 5 | 9 | 95.2/3 | 37 | 59 | 3.48 |
2001 | エンゼルス | 46 | 5− 6 | 0 | 55.2/3 | 25 | 41 | 4.04 |
2002 | マリナーズ | 53 | 8− 3 | 1 | 70.1/3 | 25 | 39 | 3.20 |
2003 | マリナーズ | 63 | 2− 4 | 16 | 73.0/0 | 12 | 32 | 1.48 |
2004 | マリナーズ | 68 | 4− 6 | 0 | 68.0/0 | 39 | 46 | 5.16 |
2005 | マリナーズ | 46 | 1− 3 | 0 | 66.2/3 | 31 | 30 | 4.19 |
MLB通算 | 517 | 45−43 | 33 | 720.1/3 | 296 | 447 | 3.70 | |
日米プロ通算 | 659 | 102−88 | 37 | 1,623.1/3 | 630 | 962 | 3.49 |
<通算ホールド NPB-(-)、MLB-72 (+13/'97-'98)>
■1995年シーズンオフにMLB移籍の可能性について一筆入れオリックスと契約更改、1997年1月MLB移籍に理解を示す仰木彬オリックス監督(当時)も追い風になり、オリックスから金銭トレードでエンゼルスに移籍が円満な形で実現、2年契約の総額136万5,000ドルでメジャーリーグ契約。
■2000年アナハイム・エンゼルス(チーム)MVP。
■2001年4月13日初の日本人対決がマリナーズ戦で実現、本拠地(エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)でイチローとの対戦は9回表(結果ショート内野安打)、このときのボールはメジャー殿堂に展示。
■2002年4月8日エンゼルス戦で初の日本人による同一試合で勝利(救援)とセーブを記録。7回裏1死走者1、2塁(スコア2対3)に2番手で救援、いきなり満塁策(敬遠)とボークで1失点も、8回表に味方打線が3得点して逆転勝利(スコア5対4)。投球内容は長谷川滋利が投球回数1イニング2/3、被安打0、失点0、与四球2、奪三振1、打者6、投球数21(ストライク9)、敬遠1、ボーク1で勝利投手、佐々木主浩が投球回数1イニング0/0、被安打0、与四球0、奪三振2、打者3、投球数14(ストライク11)でセーブ。
■2003年7月15日MLBオールスターゲーム(シカゴ)にア・リーグ4番手で救援登板、1点リード(スコア0対1)の5回表に投球回数0イニング2/3、打者6、被安打3、失点4(自責点4)、与四球1、奪三振1と乱調、チームの逆転(スコア6対7)で敗投手は免れるも救援失敗(BS1)が付いた。
■2003年MLB救援登板(6.3フィリーズ戦〜8.17レッドソックス戦)で25試合、28イニング2/3連続無失点の快記録。
■2016年オリックスのシニアアドバイザーに就任(11.1)。
■2022年オリックスのDGM(Deputy General Manager)を契約満了で退任('23.1.1付)すると発表(12.28)。2022年チームのパ・リーグ2連覇と日本シリーズを制し26年ぶりの“日本一”が花道になった。
「NPBデビュー」 1991年4月11日西武戦(グリーンスタジアム神戸)。
「NPBデータ」 1991年NPB初勝利(6.5日本ハム戦)。 1991年NPB初セーブ(6.16ダイエー戦)。 1991年NPB初奪三振(4.11西武戦)。
『TAKKAS』 柏田 貴史 |
柏田 貴史 (かしわだ たかし) 元 ニューヨーク・メッツ。 1971年5月14日生まれ、熊本県出身。 身長179cm、体重82kg。 左投げ、左打ち。 |
『NPB履歴』
八代工業高。 (1989年ドラフト外) 1994年〜1996年読売・ジャイアンツ、 1998年〜2004年読売・ジャイアンツ。
『MLB履歴』
(野球留学) 1997年ニューヨーク・メッツ。
「MLBデビュー」
1997年5月1日パドレス戦(シェイ・スタジアム)“救援登板(中継ぎ)”。
「MLBデータ」
1997年MLB初勝利(5.18ロッキーズ戦)“中継ぎ登板”。 1997年MLB初奪三振(5.1パドレス戦)。
[柏田 貴史、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1994 | 読売 | 16 | 1−0 | 0 | 18.0/0 | 7 | 10 | 3.50 |
1995 | 読売 | 2 | 0−0 | 0 | 4.0/0 | 3 | 4 | 6.75 |
1996 | 読売 | 8 | 0−1 | 0 | 11.0/0 | 4 | 1 | 3.27 |
1998 | 読売 | 2 | 0−0 | 0 | 2.0/0 | 0 | 0 | 0.00 |
1999 | 読売 | 52 | 0−1 | 0 | 32.1/3 | 18 | 23 | 5.01 |
2000 | 読売 | 50 | 2−0 | 0 | 53.0/0 | 17 | 36 | 2.89 |
2001 | 読売 | 39 | 0−0 | 0 | 27.2/3 | 11 | 19 | 3.58 |
2002 | 読売 | 3 | 1−0 | 0 | 3.2/3 | 0 | 1 | 0.00 |
2003 | 読売 | 21 | 0−0 | 1 | 20.1/3 | 11 | 11 | 4.87 |
2004 | 読売 | 10 | 0−0 | 0 | 14.1/3 | 10 | 10 | 6.28 |
NPB通算 | 203 | 4−2 | 1 | 186.1/3 | 81 | 115 | 3.91 | |
1997 | メッツ | 35 | 3−1 | 0 | 31.1/3 | 15 | 19 | 4.31 |
MLB通算 | 35 | 3−1 | 0 | 31.1/3 | 15 | 19 | 4.31 | |
日米プロ通算 | 238 | 7−3 | 1 | 217.2/3 | 96 | 134 | 3.97 |
<通算ホールド NPB-(-)、MLB-(-)>
■1995年ハワイ・ウインター・ベースボールに巨人から派遣選手として参加、チームはホノルル・シャークス。
■1997年2月巨人から野球留学でメッツの春季キャンプに特別参加、キャンプ・オープン戦での好投がBobby Valentine(ボビー・バレンタイン)メッツ監督の目に留まり、巨人の許可(自由契約選手)を得て4月メッツとマイナーリーグ契約。メッツ傘下チーム、ノーフォーク(NYM-AAA)でも実力を発揮してメッツに昇格、5月MLB初登板を果たす。
「NPBデビュー」 1994年4月12日@横浜戦(横浜スタジアム)。
「NPBデータ」 1994年NPB初勝利(4.14横浜戦)。 2003年NPB初セーブ(4.25横浜戦)。 1994年NPB初奪三振(4.12横浜戦)。
伊良部 秀輝 |
伊良部 秀輝 (いらぶ ひでき) 元 テキサス・レンジャーズ。 1969年5月5日生まれ、兵庫県出身。 身長193cm、体重113kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
尽誠学園高。 (1987年ドラフト1巡目) 1988年〜1996年ロッテ・オリオンズ(’92〜千葉ロッテ・マリーンズ)、 2003年〜2004年阪神・タイガース。
『MLB履歴』
(独占交渉権譲渡) (1997年サンディエゴ・パドレス) 1997年〜1999年ニューヨーク・ヤンキース、 2000年〜2001年モントリオール・エクスポズ、 2002年テキサス・レンジャーズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1995年、1996年パ・リーグ最優秀防御率。 1994年パ・リーグ最多勝利。 1994年、1995年パ・リーグ最多奪三振。 1996年NPB通算1,000奪三振達成(5.17日本ハム戦)。
『MLBタイトル、表彰、記録』
1998年5月、1999年7月ア・リーグ月間MVP。
「MLBデビュー」
1997年7月10日タイガース戦(ヤンキー・スタジアム)“先発登板”。
「MLBデータ」
1997年MLB初勝利(7.10タイガース戦)“先発登板”。 2002年MLB初セーブ(4.17エンゼルス戦)。 2002年MLB初ホールド(6.20カブス戦)。 1997年MLB初奪三振(7.10タイガース戦)。 1998年MLB初完投、初完封(5.25ホワイトソックス戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2003年NPB-MLB通算100勝利達成(6.5中日戦)。 1996年NPB通算1,000投球回達成(5.17日本ハム戦)。 1998年NPB-MLB通算1,500投球回達成(9.17デビルレイズ戦)。 1996年NPB通算1,000奪三振達成(5.17日本ハム戦)。 2002年NPB-MLB通算1,500奪三振達成(5.22ツインズ戦)。
[伊良部 秀輝、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1988 | ロッテ | 14 | 2− 5 | 1 | 39.1/3 | 17 | 21 | 3.89 |
1989 | ロッテ | 33 | 0− 2 | 9 | 51.0/0 | 20 | 50 | 3.53 |
1990 | ロッテ | 34 | 8− 5 | 0 | 123.2/3 | 52 | 102 | 3.78 |
1991 | ロッテ | 24 | 3− 8 | 0 | 100.2/3 | 77 | 78 | 6.88 |
1992 | ロッテ | 28 | 0− 5 | 0 | 77.0/0 | 33 | 55 | 3.86 |
1993 | ロッテ | 32 | 8− 7 | 1 | 142.1/3 | 49 | 160 | 3.10 |
1994 | ロッテ | 27 | 15− 10 | 0 | 207.1/3 | 70 | 239 | 3.04 |
1995 | ロッテ | 28 | 11− 11 | 0 | 203.0/0 | 57 | 239 | 2.53 |
1996 | ロッテ | 23 | 12− 6 | 0 | 157.1/3 | 42 | 167 | 2.40 |
2003 | 阪神 | 27 | 13− 8 | 0 | 173.0/0 | 74 | 164 | 3.85 |
2004 | 阪神 | 3 | 0− 2 | 0 | 11.2/3 | 17 | 7 | 13.11 |
NPB通算 | 273 | 72− 69 | 11 | 1,286.1/3 | 508 | 1,282 | 3.55 | |
1997 | ヤンキース | 13 | 5− 4 | 0 | 53.1/3 | 42 | 56 | 7.09 |
1998 | ヤンキース | 29 | 13− 9 | 0 | 173.0/0 | 78 | 126 | 4.06 |
1999 | ヤンキース | 32 | 11− 7 | 0 | 169.1/3 | 91 | 133 | 4.84 |
2000 | エクスポズ | 11 | 2− 5 | 0 | 54.2/3 | 44 | 42 | 7.24 |
2001 | エクスポズ | 3 | 0− 2 | 0 | 16.2/3 | 9 | 18 | 4.86 |
2002 | レンジャーズ | 38 | 3− 8 | 16 | 47.0/0 | 30 | 30 | 5.74 |
MLB通算 | 126 | 34− 35 | 16 | 514.0/0 | 294 | 405 | 5.15 | |
日米プロ通算 | 399 | 106−104 | 27 | 1,800.1/3 | 802 | 1,687 | 4.01 |
<通算ホールド NPB-0、MLB-2>
■1993年8月31日対戦チームの大沢啓二(日本ハム監督)が「幕張の浜で泳いでたら“伊良部”っていう電気クラゲに刺されてしもうた、痛てぇたらありゃしねえ・・・」と敗将インタビューで答えた。また、捕手の捕球もビリビリ痺れる程の剛速球を表した事から“イラブクラゲ”と呼ばれるようになる。
■1996年シーズンオフの契約交渉でメジャー移籍の決意に折れた形でロッテが独占交渉権を提携球団パドレスに譲渡、1997年1月13日ロッテから交換トレード(1対1)でパドレスに移籍が決まるも納得せず、さらに今度は代理人を立てて交渉、1997年5月29日パドレスから金銭を含む交換トレード(2対3)で熱望のヤンキースに三角トレード移籍、4年契約の総額1,280万ドルでメジャーリーグ契約。
■1997年7月20日ブルワーズ戦で降板の際(6イニング2/3、自責点6とノックアウト)、ブーイングするファンに向けて唾を吐く騒動を起し、ヒール役として辛辣なニューヨーク・メディアの標的になる。
■1998年MLBワールドシリーズに出場選手登録25人枠でブルペン入り(登板機会なし)、チームがワールドシリーズ制覇して優勝記念のチャンピオンズ・リング授与。制覇チーム恒例のホワイトハウス招待('99.6.10)でBill Clinton(ビル・クリントン)大統領を表敬。
■1999年ヤンキース春季キャンプ最終登板のインディアンスとのオープン戦(4.1)で大乱調の挙句、1塁ベースカバーを怠ったプレイにGeoge Steinbrenner(ジョージ・スタインブレナー)オーナーから「太ったヒキガエル(fat pussy toad)みたいだ、1塁カバーを怠るなんて在り得ない、ヤンキースの一員としてあるまじき失態だ、体重252ポンドなんて愚かとしか言いようがない・・・」と発奮を促され、恰好のメディア材料とされた。後日、メディア取材でオーナーから「彼の力が必要だ。ああいう発言をして本当にすまなかった」と謝罪があったことを知り、オーナーの誕生日(7.4)に“カエルの置物”をプレゼント、オーナーも彼の洒落を理解して執務室に置いていたという。
■1999年シーズンオフにエクスポズ3選手と交換トレード移籍(12.22)。ヤンキースが1年目('00)の年俸412万5,000ドルを4年契約の最終年分として負担、エクスポズが2年目('01)の年俸250万ドル+出来高を支払う。
■2001年右肘靭帯を痛めてリハビリ中、遠征先でチームメートとの食事で深酒をして意識不明、救急搬送された(8.26)。エクスポズは7日間の謹慎処分(8.29)を課し、続いて解雇(9.6)。シーズンオフにレンジャーズとマイナーリーグ契約(12.27)。
■2002年レンジャーズ春季キャンプに招待選手で参加、開幕メジャーを勝ち取る(年俸55万ドル)。エンゼルス戦(4.17)からクローザーを担当、素晴らしい活躍を見せ完全復活を印象付けるも、肺血栓が見つかり(7.15)、そのままシーズンを終える。シーズンオフに阪神と1年契約の年俸2億円で契約(12.7)、NPBに復帰した。
■2003年NPB阪神のセ・リーグ優勝に先発投手として貢献。2005年3月アメリカ永住権(グリーンカード)の既得もあり、ロサンゼルスで高校時代の友人と「スーパー・ウドン」のフランチャイズ共同経営も、事業は思惑通りには進まなかった。2008年8月大阪の飲食店で騒動を起す(クレジットカードのロック事件)。2009年4月アメリカ独立リーグのゴールデン・ベースボール・リーグ、ロングビーチ・アーマダと契約、8月四国、九州アイランドリーグ、高知・ファイティングドッグスと契約するなど野球への情熱は冷めなかった。2010年1月痛めた右手首の腱鞘炎は完治せず、2度目の引退宣言をする。
■2011年7月27日ロサンゼルス近郊の自宅で遺体で発見される、隣人が24日までは姿を見ていて検死の結果は自殺と判明。「人付き合いが苦手で破天荒な面があるが、心は純粋で優しかった。」と早すぎた死(享年42)を悼んだ。
「NPBデビュー」 1988年5月7日西武戦(川崎球場)。
「NPBデータ」 1988年NPB初勝利(8.14阪急戦)。 1988年NPB初セーブ(10.20南海戦)。 1988年NPB初奪三振(5.7西武戦)。
吉井 理人 |
吉井 理人 (よしい まさと) 元 モントリオール・エクスポズ。 1965年4月20日生まれ、和歌山県出身。 身長188cm、体重95kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
箕島高。 (1983年ドラフト2巡目) 1985年〜1994年近鉄・バファローズ、 1995年〜1997年ヤクルト・スワローズ、 2003年〜2007年オリックス・ブルーウェーブ(’05〜オリックス・バファローズ)、 2007年千葉ロッテ・マリーンズ。
『MLB履歴』
(FA権行使) 1998年〜1999年ニューヨーク・メッツ、 2000年〜2001年コロラド・ロッキーズ、 2001年〜2002年モントリオール・エクスポズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1988年パ・リーグ最優秀救援。
「MLBデビュー」
1998年4月5日パイレーツ戦(シェイ・スタジアム)“先発登板”。
「MLBデータ」
1998年MLB初勝利(4.5パイレーツ戦)“先発登板”。 2002年MLB初ホールド(4.26カージナルス戦)。 1998年MLB初奪三振(4.5パイレーツ戦)。 1998年MLB初完投(5.21レッズ戦)。 2000年MLB初盗塁(6.24ダイヤモンドバックス戦)。
「MLB通算記録」
2002年MLB通算100試合先発登板達成(4.11マーリンズ戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2005年NPB-MLB通算500試合登板達成(5.22ヤクルト戦)。 2001年NPB-MLB通算100勝利達成(8.8カージナルス戦)。 1995年NPB通算1,000投球回達成(9.4オリックス戦)。 2000年NPB-MLB通算1,500投球回達成(8.12エクスポズ戦)。 2006年NPB-MLB通算2,000投球回達成(6.14巨人戦)。 2001年NPB-MLB通算1,000奪三振達成(9.22ロッキーズ戦)。
[吉井 理人、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1985 | 近鉄 | 2 | 0− 1 | 0 | 3.0/0 | 7 | 1 | 21.00 |
1986 | 近鉄 | 2 | 0− 0 | 0 | 2.1/3 | 6 | 2 | 23.14 |
1987 | 近鉄 | 13 | 2− 1 | 0 | 36.0/0 | 19 | 23 | 4.75 |
1988 | 近鉄 | 50 | 10− 2 | 24 | 80.1/3 | 24 | 44 | 2.69 |
1989 | 近鉄 | 47 | 5− 5 | 20 | 84.1/3 | 28 | 44 | 2.99 |
1990 | 近鉄 | 45 | 8− 9 | 15 | 74.1/3 | 28 | 55 | 3.39 |
1991 | 近鉄 | 21 | 2− 1 | 2 | 26.1/3 | 10 | 13 | 3.42 |
1992 | 近鉄 | 9 | 1− 0 | 0 | 11.2/3 | 3 | 4 | 2.31 |
1993 | 近鉄 | 22 | 5− 5 | 0 | 104.2/3 | 31 | 66 | 2.67 |
1994 | 近鉄 | 21 | 7− 7 | 0 | 97.0/0 | 59 | 42 | 5.47 |
1995 | ヤクルト | 25 | 10− 7 | 0 | 147.1/3 | 51 | 91 | 3.12 |
1996 | ヤクルト | 25 | 10− 7 | 0 | 180.1/3 | 65 | 145 | 3.24 |
1997 | ヤクルト | 28 | 13− 6 | 0 | 174.1/3 | 58 | 104 | 2.99 |
2003 | オリックス | 24 | 2− 7 | 1 | 76.0/0 | 55 | 43 | 6.51 |
2004 | オリックス | 3 | 0− 1 | 0 | 3.2/3 | 7 | 2 | 17.18 |
2005 | オリックス | 15 | 6− 5 | 0 | 73.2/3 | 33 | 33 | 4.03 |
2006 | オリックス | 19 | 7− 9 | 0 | 101.2/3 | 43 | 33 | 3.81 |
2007 | オリックス | 10 | 1− 6 | 0 | 40.2/3 | 26 | 14 | 5.75 |
ロッテ | 4 | 0− 3 | 0 | 12.1/3 | 18 | 4 | 13.14 | |
シーズン計 | 14 | 1− 9 | 0 | 53.0/0 | 44 | 18 | 7.47 | |
NPB通算 | 385 | 89− 82 | 62 | 1,330.0/0 | 571 | 763 | 3.86 | |
1998 | メッツ | 29 | 6− 8 | 0 | 171.2/3 | 75 | 117 | 3.93 |
1999 | メッツ | 31 | 12− 8 | 0 | 174.0/0 | 85 | 105 | 4.40 |
2000 | ロッキーズ | 29 | 6− 15 | 0 | 167.1/3 | 109 | 88 | 5.86 |
2001 | エクスポズ | 42 | 4− 7 | 0 | 113.0/0 | 60 | 63 | 4.78 |
2002 | エクスポズ | 31 | 4− 9 | 0 | 131.1/3 | 60 | 74 | 4.11 |
MLB通算 | 162 | 32− 47 | 0 | 757.1/3 | 389 | 447 | 4.62 | |
日米プロ通算 | 547 | 121−129 | 62 | 2,087.1/3 | 960 | 1,210 | 4.14 |
<通算ホールド NPB-0、MLB-1> <シーズン中途移籍 '07.6.28〜ロッテ>
■1997年シーズンオフにFA権を行使、1998年1月メッツと1年契約の年俸50万ドル+出来高でメジャーリーグ契約。
■1999年MLBデビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシリーズの先発1番手の重責を担当。
■1999年全米野球記者協会選出のグッドガイ賞。
■2002年8月6日カージナルス戦で無四球完投。
■2006年3月29日NPB楽天戦でNPB全12球団から勝利投手となる快記録達成は史上5人目。
■2007年4月1日オリックス所属時の楽天戦で1イニング2満塁本塁打をホセ・フェルナンデス(Jose Fernandez)、山崎武司に被弾、2死から失策絡み失点8で自責点0の珍記録。なお、1996年10月9日金森隆治が中日所属時の阪神戦で新庄剛志、塩谷和彦(代打)に被弾(同一投手)して以来の記録。
■2008年〜2012年日本ハム投手コーチ(2008年、2009年、2011年、2012年は1軍投手コーチ、2010年は2軍投手コーチ)を務める。2012年シーズンオフ日本ハムは契約を更新しないと通知(11.4)、チームを退団。2014年4月に筑波大大学院に入学(スポーツ健康システムマネジメント専攻)も、ソフトバンク1軍投手コーチ就任が決まる(11.29)。休学して2015年ソフトバンクの日本シリーズ制覇にも貢献、復学を理由に退団(11.3)。2015年日本ハム1軍投手コーチに2年契約で復帰(11.27)。2018年シーズンオフ、クライマックスシリーズに進出も1stステージで終わり、退団(10.16)。同年、ロッテの1軍コーチに就任(11.1)。
■2021年ロッテ球団ピッチング・コーディネーターに就任(12.14)、新設ポストでチームの中長期的な選手強化プランを策定する。また、“侍ジャパン”の投手コーチにも就任、栗山英樹(野球日本代表監督)を支える(12.16)。
■2022年ドジャースに短期留学、MLB最先端の球団独自システムやトレーニング方法を学ぶと発表(3.7)。まず、アリゾナで行われているマイナーキャンプ視察からスタートする。
■2022年シーズンオフ、ロッテ監督就任が決まる(10.7)。
「NPBデビュー」 1985年9月16日西武戦(藤井寺球場)。
「NPBデータ」 1987年NPB初勝利(8.18南海戦)。 1988年NPB初セーブ(4.27ロッテ戦)。 1985年NPB初奪三振(9.18南海戦)
『DAKY』 木田 優夫 |
木田 優夫 (きだ まさお) 元 シアトル・マリナーズ。 1968年9月12日生まれ、東京都出身。 身長188cm、体重95kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
日本大明星高。 (1986年ドラフト1巡目) 1989年〜1997年読売・ジャイアンツ、 1998年オリックス・ブルーウェーブ、 2000年〜2001年オリックス・ブルーウェーブ、 2006年〜2009年東京ヤクルト・スワローズ、 2010年〜2012年北海道日本ハム・ファイターズ。
『MLB履歴』
(FA権行使) 1999年〜2000年デトロイト・タイガース、 2003年〜2004年ロサンゼルス・ドジャース、 2004年〜2005年シアトル・マリナーズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1990年セ・リーグ最多奪三振。
「MLBデビュー」
1999年4月5日@レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド)“救援登板(中継ぎ)”。
「MLBデータ」
1999年MLB初勝利(6.14マリナーズ戦)“完了登板”。 1999年MLB初セーブ(5.17インディアンス戦)。 1999年MLB初ホールド(5.8オリオールズ戦)。 1999年MLB初奪三振(4.5レンジャーズ戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2007年NPB-MLB通算500試合登板達成(9.9中日戦)。 2010年NPB通算500試合登板達成(5.4ロッテ戦)。 1999年NPB-MLB通算1,000投球回達成(5.19ブルージェイズ戦)。 2000年NPB通算1,000投球回達成(8.3日本ハム戦)。 2007年NPB-MLB通算1,000奪三振達成(5.16中日戦)。 2009年NPB通算1,000奪三振達成(8.7巨人戦)。
[木田 優夫、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1989 | 読売 | 8 | 2− 1 | 0 | 37.0/0 | 19 | 26 | 4.62 |
1990 | 読売 | 32 | 12− 8 | 7 | 182.2/3 | 55 | 182 | 2.71 |
1991 | 読売 | 19 | 4− 7 | 1 | 50.1/3 | 36 | 44 | 6.44 |
1992 | 読売 | 29 | 3− 6 | 0 | 93.1/3 | 47 | 87 | 4.53 |
1993 | 読売 | 35 | 7− 7 | 2 | 131.2/3 | 49 | 97 | 3.35 |
1994 | 読売 | 28 | 6− 8 | 1 | 87.2/3 | 48 | 61 | 4.93 |
1995 | 読売 | 40 | 7− 9 | 0 | 121.2/3 | 46 | 97 | 3.40 |
1996 | 読売 | 33 | 7− 9 | 2 | 123.2/3 | 52 | 99 | 3.78 |
1997 | 読売 | 39 | 2− 2 | 7 | 49.2/3 | 11 | 53 | 1.99 |
1998 | オリックス | 36 | 4− 7 | 16 | 97.1/3 | 50 | 74 | 4.62 |
2000 | オリックス | 24 | 3− 3 | 3 | 41.1/3 | 26 | 31 | 5.66 |
2001 | オリックス | 13 | 2− 1 | 1 | 19.1/3 | 8 | 18 | 3.72 |
2006 | ヤクルト | 56 | 3− 5 | 8 | 58.1/3 | 20 | 47 | 3.09 |
2007 | ヤクルト | 50 | 1− 3 | 2 | 48.2/3 | 17 | 44 | 3.14 |
2008 | ヤクルト | 19 | 2− 0 | 0 | 20.2/3 | 7 | 12 | 3.05 |
2009 | ヤクルト | 30 | 3− 4 | 0 | 48.2/3 | 30 | 31 | 5.55 |
2010 | 日本ハム | 21 | 5− 2 | 0 | 52.2/3 | 28 | 30 | 4.78 |
2011 | 日本ハム | 3 | 0− 0 | 0 | 4.0/0 | 2 | 3 | 4.50 |
2012 | 日本ハム | 1 | 0− 0 | 0 | 1.0/0 | 0 | 0 | 0.00 |
NPB通算 | 516 | 73−82 | 50 | 1,269.2/3 | 551 | 1,036 | 3.91 | |
1999 | タイガース | 49 | 1− 0 | 1 | 64.2/3 | 45 | 50 | 6.26 |
2000 | タイガース | 2 | 0− 0 | 0 | 2.2/3 | 3 | 0 | 10.12 |
2003 | ドジャース | 3 | 0− 1 | 0 | 12.0/0 | 4 | 8 | 3.00 |
2004 | ドジャース | 3 | 0− 0 | 0 | 4.2/3 | 0 | 5 | 0.00 |
マリナーズ | 7 | 0− 0 | 0 | 9.2/3 | 9 | 5 | 8.38 | |
シーズン計 | 10 | 0− 0 | 0 | 14.1/3 | 9 | 10 | 5.65 | |
2005 | マリナーズ | 1 | 0− 0 | 0 | 2.0/0 | 1 | 0 | 4.50 |
MLB通算 | 65 | 1− 1 | 1 | 95.2/3 | 62 | 68 | 5.83 | |
日米プロ通算 | 581 | 74−83 | 51 | 1,365.1/3 | 613 | 1,104 | 4.04 |
<通算ホールド NPB-50、MLB-4> <シーズン中途移籍 '04.9.1〜マリナーズ>
■1990年4月8日NPBヤクルト戦の延長12回裏、金沢次男投手から東京ドーム左翼席にサヨナラ本塁打(プロ初安打)。
■1998年シーズンオフにFA権を行使、11月タイガースと2年契約の総額300万ドルでメジャーリーグ契約、2000年6月マイナーリーグ降格を機にオリックス(NPB)に復帰も自由契約選手、2002年は腰の治療に専念。
■2003年2月ドジャースとマイナーリーグ契約(2.25)。ドジャース招待選手として春季キャンプ地に向かう途中の交通事故(3.1)で足を骨折、全治6週間の重傷を負う。真っ先に病院に駆け付けたチームメイトの野茂英雄から「歩けんでも出来ることはやっとけよ!」と不死鳥のオーラを感じる励ましと心の温かさに感銘。驚異的な回復で8月にドジャース昇格(8.13)、カブス戦(8.15)に先発で復帰登板。
■2005年マリナーズ傘下チーム、タコマ(SEA-AAA)所属時にトリプルA、オールスターゲーム出場。
■2006年ヤクルトでNPB復帰、56試合に中継ぎ登板して23ホールド(セ・リーグ4位)を記録。また、オールスターゲームに15年ぶり(史上最長ブランク)に監督推薦で出場。
■2012年シーズンオフに日本ハムを戦力外、コーチ就任の打診も現役に拘り12球団合同トライアウトにも参加(11.9)移籍先を探す。独立リーグのBCリーグ、石川・ミリオンスターズと契約(12.22)、「選手でいることが楽しい」と生粋の“野球小僧”。
■2013年独立リーグのBCリーグ、石川・ミリオンスターズで52試合、3勝1敗15セーブ、投球回数51イニング0/0、自責点10、奪三振2、防御率1.76の成績を残す。シーズンオフに12球団合同トライアウトに参加もNPB復帰は叶わず、石川・ミリオンスターズで現役続行、チームGMも兼任で契約(12.9)。
■2014年独立リーグのBCリーグ、群馬・ダイヤモンドベガサス戦で引退試合(9.14)、“野球小僧”を貫いた現役を終えた。
■2014年NPB日本ハム、GM補佐に就任が決まる(10.27)。2018年シーズンオフ、日本ハム1軍チーフ投手コーチに就任、秋季キャンプから指導が始まる(10.31)。2020年日本ハム1軍投手コーチを務め、2021年日本ハム2軍総合コーチ兼投手コーチを務める。原田豊2軍監督の退任(10.30)で2軍代理監督として秋季教育リーグ「みやざきフェニックス・リーグ(10.11〜11.1)」の残り試合の指揮を執る。
「NPBデビュー」 1989年4月17日広島戦(東京ドーム)。
「NPBデータ」 1989年NPB初勝利(4.29中日戦)。 1990年NPB初セーブ(4.11阪神戦)。 2006年NPB初ホールド(3.31阪神戦)。 1989年NPB初奪三振(4.17広島戦)。
『TOMO』 大家 友和 |
大家 友和 (おおか ともかず) 元 クリーブランド・インディアンス。 1976年3月18日生まれ、京都府出身。 身長185cm、体重82kg。 右投げ、両打ち。 |
『NPB履歴』
京都成章高。 (1993年ドラフト3巡目) 1994年〜1996年、1998年横浜・ベイスターズ、 2010年〜2011年横浜・ベイスターズ。
『MLB履歴』
(自由契約選手) 1999年〜2001年ボストン・レッドソックス、 2001年〜2005年モントリオール・エクスポズ(’05〜ワシントン・ナショナルズ)、 2005年〜2006年ミルウォーキー・ブルワーズ、 2007年トロント・ブルージェイズ、 (2007年セントルイス・カージナルス) (2007年シアトル・マリナーズ) (2008年シカゴ・ホワイトソックス) 2009年クリーブランド・インディアンス。 (2014年トロント・ブルージェイズ) (2017年ボルチモア・オリオールズ)
『MLBタイトル、表彰、記録』
2007年MLB通算50勝利達成(4.29レンジャーズ戦)。 2006年MLB通算500奪三振達成(4.20レッズ戦)。
「MLBデビュー」
1999年7月19日マーリンズ戦(フェンウエイ・パーク)“先発登板”。
「MLBデータ」
1999年MLB初勝利(10.1オリオールズ戦)“中継ぎ登板”。 2005年MLB初ホールド(7.10ブレーブス戦)。 1999年MLB初奪三振(7.23タイガース戦)。 2002年MLB初完投(8.18パドレス戦)。 2005年MLB初完封(6.14デビルレイズ戦)。
「MLB通算記録」
2003年MLB通算100試合先発登板達成(9.26レッズ戦)。 2006年MLB通算150試合先発登板達成(5.1アストロズ戦)。 2007年MLB通算50勝利達成(4.29レンジャーズ戦)。 2009年MLB通算1,000投球回達成(5.30ヤンキース戦)。 2006年MLB通算500奪三振達成(4.20レッズ戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2006年NPB-MLB通算1,000投球回達成(9.15ナショナルズ戦)。
[大家 友和、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1994 | 横浜 | 15 | 1− 1 | 0 | 28.0/0 | 13 | 18 | 4.18 |
1995 | 横浜 | 3 | 0− 0 | 0 | 9.1/3 | 2 | 6 | 1.93 |
1996 | 横浜 | 14 | 0− 1 | 0 | 18.0/0 | 19 | 11 | 9.50 |
1998 | 横浜 | 2 | 0− 0 | 0 | 2.0/0 | 2 | 1 | 9.00 |
2010 | 横浜 | 22 | 7− 9 | 0 | 121.2/3 | 62 | 62 | 4.59 |
2011 | 横浜 | 7 | 0− 6 | 0 | 32.2/3 | 25 | 14 | 6.89 |
NPB通算 | 63 | 8−17 | 0 | 211.2/3 | 123 | 112 | 5.23 | |
1999 | レッドソックス | 8 | 1− 2 | 0 | 13.0/0 | 9 | 8 | 6.23 |
2000 | レッドソックス | 13 | 3− 6 | 0 | 69.1/3 | 24 | 40 | 3.12 |
2001 | レッドソックス | 12 | 2− 5 | 0 | 52.1/3 | 36 | 37 | 6.19 |
エクスポズ | 10 | 1− 3 | 0 | 54.2/3 | 29 | 31 | 4.77 | |
シーズン計 | 22 | 3− 8 | 0 | 107.0/0 | 65 | 68 | 5.47 | |
2002 | エクスポズ | 32 | 13− 8 | 0 | 192.2/3 | 68 | 118 | 3.18 |
2003 | エクスポズ | 34 | 10−12 | 0 | 199.0/0 | 92 | 118 | 4.16 |
2004 | エクスポズ | 15 | 3− 7 | 0 | 84.2/3 | 32 | 38 | 3.40 |
2005 | ナショナルズ | 10 | 4− 3 | 0 | 54.0/0 | 20 | 17 | 3.33 |
ブルワーズ | 22 | 7− 6 | 0 | 126.1/3 | 61 | 81 | 4.35 | |
シーズン計 | 32 | 11− 9 | 0 | 180.1/3 | 81 | 98 | 4.04 | |
2006 | ブルワーズ | 18 | 4− 5 | 0 | 97.0/0 | 52 | 50 | 4.82 |
2007 | ブルージェイズ | 10 | 2− 5 | 0 | 56.0/0 | 36 | 21 | 5.79 |
2009 | インディアンス | 18 | 1− 5 | 0 | 71.0/0 | 47 | 31 | 5.96 |
MLB通算 | 202 | 51−67 | 0 | 1,070.0/0 | 506 | 590 | 4.26 | |
日米プロ通算 | 265 | 59−84 | 0 | 1,281.2/3 | 629 | 702 | 4.42 |
<通算ホールド NPB-0、MLB-1> <シーズン中途移籍 '01.7.31〜エクスポズ、'05.6.10〜ブルワーズ>
MLB通算50勝利達成 ('07.4.26 レンジャーズ戦) |
MLB通算1,000投球回達成 ('09.5.30 ヤンキース戦) |
■1998年シーズンオフに横浜はMLB移籍を理解して自由契約選手、12月レッドソックスとマイナーリーグ契約、1999年レッドソックス傘下チームのトレントン(BOS-AA)8連勝、ポータケット(BOS-AAA)3連勝と破竹の11連勝(マイナーリーグ15連勝)を飾るなどメジャー目指して駆け上り、7月レッドソックスに昇格。
■1999年、2000年レッドソックス傘下チーム、ポータケット(BOS-AAA)所属時にMLBオールスターゲームの一環として開催されるマイナーリーグ有望選手が対象のフューチャーズゲーム出場選手に選出(1999年先発登板)。
■2000年6月1日レッドソックス傘下チーム、ポータケット(BOS-AAA)所属時の対ホワイトソックス傘下チーム、シャーロット(CWS-AAA)戦で“完全試合”達成、バッテリーはジョー・シダル。試合はロードアイランド州ポータケットで2-0でシャーロットを退け、投球数77(初球ストライク20/ストライク59)、2ボールを与えた打者2、奪三振8と当に完璧、インターナショナル・リーグ(MiLB-AAA)117年の史上48年ぶり3人目の快挙。
■2002年8月18日パドレス戦、2003年9月26日レッズ戦で無四球完投。
■2002年9月7日ブレーブス戦、5回1死1塁で本塁打を前2打席連続で喫した打者Andruw Jones(アンドリュー・ジョンズ)の左側頭部にボールを当て危険球で初の退場処分。
■2006年8月24日ロッキーズ戦でキャリア初の左打席に入り1打席は打撃防害で1打点、2打席はレフト前安打で2打点、3打席はセンター前安打で1打点と1試合4打点のミラクル、スイッチヒッター誕生。
■2007年5月9日レッドソックス戦(ロジャーズ・センター)で4度目の日本人先発投手対決が実現した。大家友和は投球回数4イニング2/3、被安打6、被本塁打0、失点3(自責点3)、与四球5(与死球0)、奪三振2、打者24、投球数96(ストライク51)、ワイルドピッチ2、敬遠与四球1と崩れ、松坂大輔は投球回数7イニング0/0、被安打5、被本塁打1、失点1(自責点1)、与四球3(与死球0)、奪三振8、打者29、投球数108(ストライク70)、ワイルドピッチ1と好投、試合はレッドソックスが勝利して松坂大輔に軍配(スコア9対3)。
■2007年5月21日アメリカ野球殿堂奉納試合(ブルージェイズ対オリオールズ戦)がニューヨーク州クーパーズ・タウン(ダブルディ・フィールド)で行われ、日本人選手として初めて登板(先発)した。奉納試合ながら結果は2回3失点で敗投手が付いた。
■2009年5月30日ヤンキース戦でMLB通算1,000投球回達成は2007年6月6日(デビルレイズ戦)以来、残りの1投球回が実に724日ぶりとなるMLB復帰登板。
■2010年5月2日NPB復帰のヤクルト戦で1994年4月29日NPBルーキーイヤーのヤクルト戦で初勝利して以来16年、5,847日を要しての勝利、それまで遠山奨志(阪神)の1989年10月14日(広島戦)に勝利してから1999年5月22日(巨人戦)で10年、3,506日を要しての勝利したのがNPB勝利最長ブランク記録で大幅更新。
■2011年シーズンは調子が上がらず苦しむ、右肩クリーニング手術(9.27)を受けて復帰を目指すことを決断、横浜から戦力外通告(10.9)、自由契約(12.2)。
■2013年独立リーグのBCリーグ、富山・サンダーバーズと契約(4.8)、21試合、7勝7敗0セーブ、投球回数111イニング0/0、自責点46、奪三振59、防御率3.73の成績を残す。米球界復帰を視野にアリゾナ州でナックルボールを練習、ブルージェイズとマイナーリーグ契約(12.16)。
■2016年シーズンオフ、オリオールズとマイナーリーグ契約(12.15)、2017年マイナーキャンプに参加も契約解除(3.28)。
■2017年シーズンオフ、DeNA2軍投手コーチに就任(11.6)。
「NPBデビュー」 1994年4月27日中日戦(横浜スタジアム)。
「NPBデータ」 1994年NPB初勝利(4.29ヤクルト戦)。 1994年NPB初奪三振(4.27中日戦)。
『DAIMAJIN』 佐々木 主浩 |
佐々木 主浩 (ささき かずひろ) 元 シアトル・マリナーズ。 1968年2月22日生まれ、宮城県出身。 身長189cm、体重98kg。 右投げ、右打ち。 |
『NPB履歴』
東北高、 東北福祉大。 (1989年ドラフト1巡目) 1990年〜1999年横浜大洋・ホエールズ(’93〜横浜・ベイスターズ)、 2004年〜2005年横浜・ベイスターズ。
『MLB履歴』
(FA権行使) 2000年〜2003年シアトル・マリナーズ。
『NPBタイトル、表彰、記録』
1992年、1995年、1996年、1997年、1998年セ・リーグ最優秀救援。 1998年セ・リーグMVP。 1998年正力松太郎賞。 1998年セ・リーグ最優秀投手。 2014年野球体育博物館・競技者表彰(野球殿堂入り)。 1998年NPB連続セーブ22試合記録。 2005年NPB通算250セーブ達成(4.14ヤクルト戦)。
『MLBタイトル、表彰、記録』
2000年ア・リーグ新人王。 2001年、2002年オールスターゲーム出場。 2000年MLB新人シーズン37セーブ記録(10.1エンゼルス戦)。 2002年MLB通算100セーブ達成(6.26アスレチックス戦)。 2002年MLB新人から3年連続30セーブ達成(8.16レッドソックス戦)。
「MLBデビュー」
2000年4月5日レッドソックス戦(セーフコ・フィールド)“救援登板(完了)”。
「MLBデータ」
2000年MLB初勝利(5.6エンゼルス戦)“完了登板”。 2000年MLB初セーブ(4.6レッドソックス戦)。 2000年MLB初奪三振(4.5レッドソックス戦)。 2001年MLBオールスターゲーム初セーブ(7.10)。
「MLB通算記録」
2001年MLB通算50セーブ達成(4.28ホワイトソックス戦)。 2002年MLB通算100セーブ達成(6.26アスレチックス戦)。
「NPB-MLB(日米プロ)通算記録」
2001年NPB-MLB通算500試合登板達成(6.12ロッキーズ戦)。 1995年NPB通算100セーブ達成(9.27巨人戦)。 1997年NPB通算150セーブ達成(8.7阪神戦)。 1998年NPB通算200セーブ達成(9.4中日戦)。 2000年NPB-MLB通算250セーブ達成(7.16ダイヤモンドバックス戦)。 2005年NPB通算250セーブ達成(4.14ヤクルト戦)。 2001年NPB-MLB通算300セーブ達成(8.2タイガース戦)。 2003年NPB-MLB通算350セーブ達成(4.14アスレチックス戦)。 2002年NPB-MLB通算1,000奪三振達成(6.14パドレス戦)。
[佐々木 主浩、通算成績]
年 度 | 所 属 | 試 合 | 勝 敗 | セーブ | 投球回数 | 自責点 | 奪三振 | 防御率 |
1990 | 大洋 | 16 | 2− 4 | 2 | 47.2/3 | 31 | 44 | 5.85 |
1991 | 大洋 | 58 | 6− 9 | 17 | 117.0/0 | 26 | 137 | 2.00 |
1992 | 大洋 | 53 | 12− 6 | 21 | 87.2/3 | 24 | 135 | 2.46 |
1993 | 横浜 | 38 | 3− 6 | 20 | 55.0/0 | 20 | 84 | 3.27 |
1994 | 横浜 | 31 | 3− 1 | 10 | 46.0/0 | 11 | 59 | 2.15 |
1995 | 横浜 | 47 | 7− 2 | 32 | 56.2/3 | 11 | 78 | 1.75 |
1996 | 横浜 | 39 | 4− 3 | 25 | 49.2/3 | 16 | 80 | 2.90 |
1997 | 横浜 | 49 | 3− 0 | 38 | 60.0/0 | 6 | 99 | 0.90 |
1998 | 横浜 | 51 | 1− 1 | 45 | 56.0/0 | 4 | 78 | 0.64 |
1999 | 横浜 | 23 | 1− 1 | 19 | 23.1/3 | 5 | 34 | 1.93 |
2004 | 横浜 | 25 | 1− 2 | 19 | 22.2/3 | 8 | 18 | 3.18 |
2005 | 横浜 | 9 | 0− 3 | 4 | 6.0/0 | 6 | 5 | 9.00 |
NPB通算 | 439 | 43−38 | 252 | 627.2/3 | 168 | 851 | 2.41 | |
2000 | マリナーズ | 63 | 2− 5 | 37 | 62.2/3 | 22 | 78 | 3.16 |
2001 | マリナーズ | 69 | 0− 4 | 45 | 66.2/3 | 24 | 62 | 3.24 |
2002 | マリナーズ | 61 | 4− 5 | 37 | 60.2/3 | 17 | 73 | 2.52 |
2003 | マリナーズ | 35 | 1− 2 | 10 | 33.1/3 | 15 | 29 | 4.05 |
MLB通算 | 228 | 7−16 | 129 | 223.1/3 | 78 | 242 | 3.14 | |
日米プロ通算 | 667 | 50−54 | 381 | 851.0/0 | 246 | 1,093 | 2.60 |
<通算ホールド NPB-0、MLB-0>
MLB通算100セーブ達成 ('02.6.26 アスレチックス戦) |
MLBデビューから 3年連続30セーブ達成 ('02.8.16 レッドソックス戦) |
NPB-MLB(日米プロ) 通算350セーブ達成 ('03.4.14 アスレチックス戦) |
■1991年8月28日NPB広島戦で“1イニング3者連続3球奪三振”を9回裏に達川光男、原伸樹、音重鎮を各3球(見逃し5、空振り4)で仕留めて記録。
■1995年7月8日NPB通算500奪三振達成(ヤクルト戦)383イニング目は野茂英雄(ロイヤルズ)412イニング1/3目、江夏豊(西武)441イニング2/3目、角盈男(ヤクルト)474イニング1/3目を遥かに超えるNPB最速達成記録。
■1998年NPB連続セーブ22試合(4.26ヤクルト戦〜6.30広島戦))を記録。
■1998年NPBシーズン45セーブを記録。2005年に岩瀬仁紀(中日)、2007年に藤川球児(カブス)がNPBシーズン46セーブを記録、NPB記録は更新された。
■1999年シーズンオフにFA権を行使、12月マリナーズと3年契約の総額1,400万ドルでメジャーリーグ契約。マリナーズ球団筆頭オーナーの山内溥(任天堂社長)から「マリナーズのピカチュウになって下さい」と口説かれた。
■2000年新人シーズン37セーブの記録は2010年Neftali Feliz(ネフタリ・フェリス/レンジャーズ)が40セーブを記録するまでMLB新人シーズン最多セーブ記録。なお、2011年Craig kimbrel(クレイグ・キンブレル/ブレーブス)が46セーブに記録更新。
■2000年ア・リーグ新人王のタイトルにはシーズンを救援投手ア・リーグ1位の奪三振率11.20、6位のWHIP1.16と抜群の投球、メジャー新人記録(当時)のシーズン37セーブなどの成績が評価された。
■2001年7月10日MLBオールスターゲーム(シアトル)に初出場で初セーブを記録。ア・リーグ9番手で完了登板、3点リード(スコア1対4)の9回表、投球回数1イニング0/0、打者3、被安打0、失点0、与四球0、奪三振1と完璧に締めた。なお、前年のオールスターゲーム(7.11/アトランタ)では選出されずも、仲良しの同僚Alex Rodriguez(アレックス・ロドリゲス/出場機会なし)がKAZUのユニホームに出場者全員のサインを貰いプレゼント、「一生の宝物です!」と感激。
■2002年6月26日MLB通算100セーブ達成(アスレチックス戦)の160試合目はBilly Koch(ビリー・コッチ/マーリンズ)の記録達成192試合目を大幅に更新するMLB史上最速達成記録。
■2002年7月9日MLBオールスターゲーム(ミルウォーキー)にア・リーグ6番手で救援登板、1点リード(スコア6対5)の7回裏、投球回数1イニング0/0、打者7、被安打3、失点2(自責点2)、与四球1、奪三振2と乱調、チームが同点(スコア7対7)に持ち込み敗投手は免れるも救援失敗(BS1)が付いた。
■2003年4月4日MLBレンジャース戦で1イニング4奪三振はMLB41回目(MLBア・リーグ19回目)の快記録。9回裏に代打Todd Greene(トッド・グリーン)を空振り、7番Carl Everett(カール・エヴァレット)は空振りも暴投(ワイルドピッチ)で振り逃げ、8番Michael Young(マイケル・ヤング)を見逃し、代打Mike Lamb(マイク・ランプ)を空振りに仕留めて成立。
■2003年4月14日MLB-NPB(日米プロ)通算350セーブ達成(アスレチックス戦)は条件の相違あるもMLB(アメリカ・メジャーリーグ)では僅か11投手が達成(〜'20)の大記録。その後、NPB(日本プロ野球)で岩瀬仁紀(中日)が通算407セーブを記録している。
“300 Saves Club” MLBで通算300セーブ達成者が会員資格を有し、1969年にセーブがMLB公式記録になって30投手が通算300セーブの条件をクリアしている(〜'20)。
MLBで通算350セーブ達成投手はMariano Rivera(マリアノ・リベラ/ヤンキース)652セーブ、Trevor Hoffman(トレバー・ホフマン/ブルワーズ)601セーブ、Lee Smith(リー・スミス/エクスポズ)478セーブ、Francisco Rodriguez(フランシスコ・ロドリゲス/タイガース)437セーブ、John Franco(ジョン・フランコ/アストロズ)424セーブ、Billy Wagner(ビリー・ワグナー/ブレーブス)422セーブ、Dennis Eckersley(デニス・エカーズリー/レッドソックス)390セーブ、Joe Nathan(ジョー・ネイサン/ジャイアンツ)377セーブ、Jonathan Papelbon(ジョナサン・パペルボン/ナショナルズ)368セーブ、Jeff Reardon(ジェフ・リアドン/ヤンキース)367セーブ、Toroy Percival(トロイ・パーシバル/レイズ)358セーブがいる(〜'20)。
■2003年6月8日遠征先から帰宅した際に自宅で転倒して右脇腹を強打、故障者リスト入りのアクシデント。8月13日(ブルージェイズ戦)で復帰するもクローザーは長谷川滋利が担い、セットアッパーに回わる。シーズンオフに「日本で家族と一緒に暮らしながら野球がしたい」と2年契約('03〜'04)を1年残しマリナーズを退団、2004年の年俸800万ドルも白紙とした。2004年2月3日横浜と2年契約の総額13億円で契約、日本プロ野球(NPB)に復帰。
■2014年日本の野球体育博物館、競技者表彰(野球殿堂入り)が野茂英雄(ロイヤルズ)、秋山幸二(ダイエー)と共に決まる(1.17)。
「NPBデビュー」 1990年4月7日@中日戦(ナゴヤ球場)。
「NPBデータ」 1990年NPB初勝利(5.24ヤクルト戦)。 1990年NPB初セーブ(4.11広島戦)。 1990年NPB初奪三振(4.7中日戦)。
「日本プロ野球名球会」 1990年4月11日NPB初セーブ(広島戦)を起点に2000年7月16日NPB-MLB通算250セーブ達成(ダイヤモンドバックス戦)で資格クリア、2003年入会。
「日本プロスポーツ大賞」 1998年大賞受賞。
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