17代目宮司の宮崎でございます。
神職として最近感じることは、神社の祭祀や作法など難しいというイメージから、徐々に知らない人が増加してきております。
また、年配の人からも十分な神社に関わるお話を聞くことも少なくなった現状から、少しでも地元神社に対し関心を持って頂くと共に、神社の理事や総代また地元の方々のお役に立てればと思いこのウエブサイトを氏子のS氏に依頼し立ち上げました。
各用語や不明なことがあれば、ご連絡ください。
このウエブサイトに反映し徐々に充実してゆきたいと思っております。
その昔財田三郷とよばれていた、財田上、財田中、財田西、に夫々鉾を御神体としてお祀りされていたものを、天正六年(1578)時の橘城主大平伊賀守国秀が現在の七尾山に社殿を建立し、財田郷鎮護の神としてこの三郷の鉾を合わせ祀り、伊予国三島宮神主宮崎大和守を祠官として迎え、以来財田郷総氏神として祭事を継承して現在に至っている。現在の地に合祀される以前の社地は、「鉾の森」とよばれ、夫々の地に今尚残されている。
鉾は、矛、才、鋒、或いは穂木(ほこ)等の字で現されている。古くは武器であったものが平安時代以降は皇宮祭儀の儀仗、或いは神事芸能の執もの(とりもの)として使われて来たものである。神代の昔、天神は、イザナギ、イザナミの、二神に「天の沼矛」を授けて国造りを命じられ、二神ははその矛のさきよりしたたり落ちる潮が凝り固まって出来た島に降りて国生みがなされた。(古事記)即ち矛は、生成をとりむすぶ絆として尊び、時として神の宿る御神体として祭り、或いは神宝として社前に飾り「まつり」の御道具として用いられている。財田郷総氏神は、強度の安泰と生成発展願いをこめて、鉾を御神宝として祭られている。