大川プロフィール・タイトル


伝 記
BIOGRAPHY



大川写真1979


●大父母苑創設者:延原大川(ノブハラタイセン)
(Taisen Nobuhara ,The Founder of Daifuboen,Kurozumi-kyo
Derived Religious Juridical Parson)



“第一章〜戦前の大川について〜”

明治43年1月23日(1910年)岡山県勝田郡奈義町に生まれる。旧制津山中学中 退後、文学を志して上京、小川未明、与謝野晶子、高村逸枝らと交遊。帰郷後は、農民 運動に参加し、社会改革思想に傾倒。大杉栄等の無政府思想に共鳴し、昭和8年頃まで そのシンパとして活動する。しかし、自爆覚悟の鉄道爆破工作に失敗したことから、警 察と仲間から追われる身となり、さらに同年12月最愛の母を亡くすに及んで、主義主 張によっては到底世の中は変えられないと悟り、帰郷後結婚し一人の農民となる。

だが、生来の理想主義的性向は農民生活に安住させることを許さなかった。昭和13年、 ひとりの社会運動家は、十代の頃から漠然と興味を抱いていた教派神道のひとつ黒住教 の教師という職を得たことで、それまでの世界からはおよそかけ離れた信仰の世界へと 旅立っていった。

黒住教は幕末の神道の勃興期に教勢を爆発的に拡大した、全国でも有数の教団であった。 教祖黒住宗忠は「天命直受」と後に称される神秘体験によって、日本伝統の太陽信仰を 深化徹底させた人として知られ、教団からも世に知られる門人が多数輩出された。

ここでの彼は、当時の教団教義を支える要となる人物”河本一止”翁の知遇を得て、宗 忠の信仰を教団教師という面からも、また、一求道者としての面からも徹底的に体現さ せられることとなる。それは、天性の資質であったのか、また、何かの見えざる導きで あったのか、恐らく本人にもその頃は分からなかったに違いない。

ともあれ、この時代の彼は、社会的には教団のための善良なる布教師であり、個人的に は、教祖が常に実践してやまなった「大祓修行」に黙々と励むひたむきなひとりの求道 者であった。昭和28年に教団を退くこととなるが、この頃の貴重な体験は、「哲人宗 忠」を代表作とする一連の黒住宗忠関連著書によって、教祖と教団に対する尊崇と奉仕 という形で結実し、他方、求道者としては生涯「大祓修行」からは決して離れることは なかった。後年、「国の祓い」と称して生涯三十万回の「大祓」奉唱を自己に課したこ とがその何よりの証明であろう。

こうして一人の社会運動家は、信仰生活者へと変貌を遂げたが、その彼にさらなる大き な転機が訪れようとしていた。昭和17年、彼の最初の著作『黒住宗忠伝』とそれに続 く『黒門勤皇家列伝』が発刊され、彼はそれまでの一布教師としての人物像からもっと 大きな信仰者へと脱皮してゆくこととなった。



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●大川が生涯尊崇してやまなった「黒住宗忠」肖像(武田五峰画)

黒住宗忠像