年 表 CHRONOLOGICAL TABLE
1910(明治43年) 1月23日、半農半商の庶民の4男として岡山県勝田郡馬桑で 生れる。(近親者の証言では2月6日出生の説もある。) 父は延原和平治、母はむつ。 1922(大正11年) 小学校で短歌の作法を習い、短歌を始める。 1923(大正12年) 篤志家(河本一止氏)の出資を受けて、旧制県立津山中学入学。 この頃より社会主義の影響を受け、反抗精神旺盛となる。文学 書を漁り、詩歌に耽る。 同年 、関東大震災。 1925(大正15年) 同中学を退学し、神戸で法律事務所の助手となり、文学を模索 するも、事務所の空気に堪えず無断辞職。秋に岡山市へ出て、 団体事務所に勤めるも支配人と合わず辞職。以後、故郷で農耕 に従事すること数年、社会主義を研究して、無政府主義運動に に奔る。 1930(昭和 5年) 大恐慌に触発されてアナキスト運動に傾く。 1932(昭和 7年) 夏、逮捕投獄される。故郷の村の失業者の先頭に立って先導し 革命思想を鼓吹したというかどによるものだった。裁判の結果 、執行猶予8年となって出獄した。以後も、少年関係の新聞な どを主宰して啓蒙運動に従う。 1933(昭和 8年) 12月、母は息子の危険な社会活動を苦にして病死。当時の暴 力革命に傾いていた社会運動の方針にも行き詰まりを感じ、ア ナキストとしての活動をやめる。 1934(昭和 9年) 故郷の菩提寺住職の禅僧池田慈雲老師に出会い、短期間の寺院 生活を体験して闘争的な頭を冷やす。 1936(昭和11年) 春、春名多平治の三女末子と結婚して、籍を妻の里に移し、さ さやかな農耕生活に入る。 1938(昭和13年) 黒住教に奉職する。 1941(昭和16年) 12月、大東亜戦争勃発。 1942(昭和17年) 6月、最初の著作「黒住宗忠伝」刊行される。 1943(昭和18年) 2月、父和平治死去。 1944(昭和19年) 教育召集されて岡山県北の蒜山へゆく。これが蒜山の地を踏む 最初の出来事であった。 1945(昭和20年) 正式召集され朝鮮の平城へ渡り、8月終戦。武装解除の後、シ ベリアはウズベック共和国に抑留生活となる。この間、猛烈な 赤痢に苦しめられ、何度も死線をさまよう。 1947(昭和22年) 4月、妻末子肺結核で病死。5月23日、シベリアより舞鶴に 帰還。6月、岡山へ帰る。12月、終生の師と仰ぐ 河本一止 翁死去する。 1950(昭和25年) 黒住教開教100年祭が契機となって教団改名論が盛んとなる。 改名論者の先頭に立って論戦するも、協議は難航し、結局論議 は預かりとなって、事実上の敗北となった。 1951(昭和26年) 蒜山の上長田教会所で後に妻となる進ひてと知り合う。 1953(昭和28年) 教団内活動に大きな限界を感じて辞職することを決意。昭和2 6年に教師となっていた進ひてとともに教団を退職した。12 月、独立後初の出版「生命の泉」発刊される。 1954(昭和29年) 1月2日、大父母苑の前身「大道社」を設立し雑誌大道を創刊。 また、天地大父母様を奉祭し、この日が苑の立教記念日となる。 かねて懇意の良き理解者進ひてと再婚し、生涯の伴侶を得る。 7月、後の隠れたベストセラー「一日一善」発刊される。笹川 良一氏のキャッチフレーズであった一日一善は、本書がその根 拠となっていることは論をまたない。 1956(昭和31年) 4月、「真人宗忠」発刊。 同月、新しい活動の拠点を求めて大阪府大東市へ移転。 1957(昭和32年) 10月「心のふるさと」発刊。 1958(昭和33年) 夏、大阪府河内市へ移転。 1959(昭和34年) 大道誌を大父母苑と改称。 1960(昭和35年) 3月、道友小島勝吉氏のお世話により、和歌山県海南市多田2 48番地に移転。借家ではあったが、初めて一戸建ての大きな 庭付き住宅を苑の拠点とすることができる。屋号も「治心と詩 の家大父母苑」となる。 1961(昭和36年) 3月、小島勝吉氏が発起人会長となり、「さわらび会」起る。 大川は会の専任講師を引き受ける。 「平訳 寒山詩」発刊される。後に、今上陛下もお買い上げに なられて、読まれたことが伝わっている。 1962(昭和37年) 「黒住宗忠とその宗教」発刊される。この書によって宗忠を知 ったという人が実に多い。名著のひとつであろう。 1964(昭和39年) 10月、「土と太陽の宗教」出版される。海南市市民会館にて 盛大な出版記念祝賀会が開催される。 1965(昭和40年) 世界建て直し百社参拝を家族、親族、知人らを募って実施。信 仰の実践活動へと踏み出す。 10月、「新訳 唐詩選」出版される。 1966(昭和41年) 高天原伝説の地を蒜山高原地方一帯だと確信し、高天原神託の 神業に入る。雑誌「大父母苑」終刊。 8月、一家を挙げて現在の苑所在地に家を建てて移転する。関 西一円の支援者に惜しまれつつ別れを告げる。 1967(昭和42年) 8月、「高天原」500部限定で刊行。雑誌「天之石位」を創刊 し、全8巻となる。 1969(昭和44年) 5月、念願の「第1回土と太陽の祭」を「高天原」伝説の地であ る蒜山高原で開催する。全国からの参加者200人を数える。 会場は地元蒜山中学校。火祭の斎場は蒜山国民休暇村であった。 1972(昭和47年) 雑誌「高天原」 を創刊。 5月、昭和41年度に左右木幸七、吉江夫妻らと共同で実施し た「沖縄返還」の神業が実現し、沖縄本土復帰となる。 1974(昭和49年) 土と太陽の祭を継続実施するための団体、高天原奉賛会発足。 この頃、もうひとつの高天原伝説「天乃真名井」が話題となる。 場所は、八束村下福田地内、通称「塩釜の冷泉」がそれで、後 に同所は、全国名水百選にも選ばれ、またここの水によって健 康を回復した人達の根強い支持が広がり、天乃真名井の伝説は 今や世間周知のこととなった。 1977(昭和52年) 9月、高天原奉賛会道場を八束村上長田「竜頭庵」に開設し、 妻とともに移住する。 1978(昭和53年) 7月、生涯かけて愛好した吟詠・朗詠の集大成である「天地神 魂吟」テープをテイチクからリリース。同好の士から大好評を 博する。吟詠・朗詠はもちろんのこと、神言まで紹介すること ができたことは、信仰者としての面目躍如であった。 1979(昭和54年) 1月、妻ひてが初代苑主となって、大祭の運営母体である「宗 教法人大父母苑」を創立。苑の活動がようやく公的に認められ る記念すべき年となった。 1980(昭和55年) 1月、英訳「哲人宗忠」が出版される。湯原町営「桃李荘」に て関係者を多数集めて祝賀会が開催された。 同書は英訳されることで、正に黒住宗忠の信仰を紹介する、完 全版の世界的な資料になったといえよう。 1981(昭和56年) 7月、妻ひて慢性腎炎で病気療養の身となり、12月、緊急入 院。以後闘病生活に入る。 1983(昭和58年) 夏、妻ひてが岡山市庭瀬に療養のため借家。久しぶりの同居生 活に入る。桃源山中記を執筆し始める。 1984(昭和59年) 8月、桃源山中記を刊行。 1986(昭和61年) 最後の著書となった「少年の春」詩集を発刊。 この頃から体の不調を訴え始める。 1987(昭和62年) 4月、死期を悟ったのか、庭瀬の寓居より、「竜頭庵」に帰り 静養の生活に入る。 5月19日、発病して病の床に臥す。25日、岡山市川崎病院 6階ICUに緊急入院。31日、午後4時43分肝不全で死去。 6月2日、本葬が「竜頭庵」にてしめやかに営まれる。 8月、第20回土と太陽の祭が開催され、延原大川を慕う、会 員、支援者、縁故の人達がその死を惜しむ。 伝記の最後に、大川の詩「人生」を記しておきます。 「人生」 すぎゆく人と思うとき 愛も恨みも憎しみも 水泡のごとき世のすがた 心の空の白雲と 消えゆくときをわれ待たん THE END
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