台湾沖航空戦
(誤報の大本営発表)


この文章は、世界文化社『連合艦隊下巻・激闘編』を引用しています。
比較検討と写真は、光人社NF文庫『写真太平洋戦争第7巻』から抜粋しました。
他にも、光人社『台湾沖航空戦』には、陸軍と海軍の混合雷撃部隊の活躍が書かれています。


 昭和19年10月12日〜16日、台湾方面に来襲した米機動部隊を迎え討った日本海軍が、台湾沖に米機動部隊を捕捉して、これに痛打を与えたとする戦闘が
台湾沖航空戦と呼ばれるものです。
10月19日午後6時、大本営は12日以降の戦果を総合して、次のような発表を行いました。

      大本営発表

『我が部隊は10月12日以降、連日、台湾及びルソン東方海面の新機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり』

@我が方の収めたる戦果綜合次の如し
 轟撃沈 航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻
 撃破 航空母艦8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻、艦種不詳13隻
 撃墜 112機(基地における撃墜を含めず)

A我が方の損害
 飛行機未帰還312機


 真実は米軍のレイテ上陸作戦に先立って、日本軍の航空兵力の撃滅を謀った、ハルゼー大将隷下の第38任務部隊の空母搭載機群の来襲でした。空母諸隊は4群に分かれ、正規空母9隻、軽空母8隻、戦艦6隻、巡洋艦14隻、駆逐艦58隻という大部隊で、支援部隊だけでも予備機を搭載した護衛空母11隻、給油艦3隻という大兵力が控えていました。従って日本側大本営発表が事実とすれば、米艦隊は文字通り撃滅され、日本海軍としては日本海海戦にも勝る大戦果といえるものですが、もちろん、これは完全な虚構で、実際の戦果は空母1隻小破、重巡キャンベラと軽巡ヒューストンを大破させたに過ぎなかったのです。

 日本海軍は、先のマリアナ沖海戦(あ号作戦発動)に完敗し、航空戦力の大半を失い、最後の砦として比島(フィリピン)、台湾、南西諸島の防衛に取り組まざるを得ませんでした。最後の決戦作戦を
捷号作戦と称して、大本営では捷一号(フィリピン方面)、捷二号(九州南部、南西諸島、台湾方面)、捷三号(本州、四国、九州、小笠原方面)、捷四号(北海道)の4方面を想定して、来襲する米艦隊を叩いて上陸軍を撃退する予定でした。しかし、機動部隊の空母は残っていましたが、マリアナ沖海戦で消耗した航空隊の再建の目途は立たず、必然的に基地航空部隊にたよらざるを得なかったのです。

 このため、まず米機動部隊への反撃にさいし、突破口となるべく各部隊より優秀な搭乗員のみ選出し、これをもって悪天候下でも攻撃可能な部隊の編成を行う事となり、8月20日、聯合艦隊命令により
「T攻撃部隊」が兵力部署されます。この部隊は一部陸軍の雷撃隊(四式重爆)を含めて、戦闘2隊、攻撃(雷撃)6隊からなり、合計150機の稼働機を擁していました。台湾沖航空戦で戦果を報告した多くは、このT部隊の薄暮、夜間攻撃によるもので、10月12日に鹿屋より一式陸攻及び銀河合わせて55機、沖縄から天山及び四式重爆合わせて44機の計99機が出撃し、敵空母部隊を攻撃しますが54機を喪失。翌13日にも薄暮攻撃に28機が出撃、18機の喪失となっています。続く14日の昼間攻撃には300機を投入し、同日夜間には、一式陸攻、銀河、四式重爆など40機が夜間攻撃を敢行しました。

この写真は、魚雷を装備した四式重爆撃機『飛竜』(キー67)です。


 この数日の攻撃でT部隊指揮官は、空母9隻〜13隻轟沈の大戦果を報告したのが誤報の発端でした。聯合艦隊司令部でも、おかしいとは思いつつも、あえて反論する者もなく、かくして余りにも過大な戦果の発表となってしまいます。このような現地からの戦果報告をそのまま発表する風潮は、昭和18年11月のブーゲンビル島沖航空戦あたりから顕著となり、同戦闘でも空母5隻、戦艦6隻撃沈といった戦果が大々的に発表されていました。結果、大戦果に有頂天となった聯合艦隊司令部では、動けなくなった残敵の追撃戦を指示しています。航空部隊に加えて水上部隊を投入、戦果拡大を計るチャンスと判断し、第二遊撃部隊指揮官 志摩清英中将に対して、第二十一戦隊、第一水雷戦隊を率いて
『敵損傷艦の捕捉撃滅、ならびに搭乗員の救助』を行わせようと出撃を下令しました。

 対する米第3艦隊司令長官ハルゼー大将は、東京の対米放送が米艦隊撃滅の大戦果を発表したのを聞いて、損傷艦2隻『キャンベラ』『ヒューストン』を囮に日本艦隊の誘い出しを行います。志摩艦隊は15日午前0時に出撃していましたが、豊後水道を出た直後には警戒していた米潜水艦に発見され、この報告をもとに空母2群を囮艦隊の周りに配置し、志摩艦隊を待ち伏せていました。志摩艦隊は対空警戒を厳重にしつつ南下を続けますが、重巡『那智』が入手した敵情報から、敵機動部隊北上の気配を察知し、16日昼12時針路を西に転じました。

 午後2時29分には艦隊上空にF4Fが2機現れ、対空砲火で撃退しますが、艦載機が飛んできた事は近くに空母が存在するという事に他在りません。志摩中将は、艦隊は敵に察知されていて、夜襲はどころか逆に攻撃される恐れがあると判断し、針路を北に転じ敵機動部隊がいると思われる方角から離脱をはかります。午後3時20分、再び米艦載機が現れましたが、この頃には聯合艦隊司令部より優勢なる米機動部隊が健在であるという報告が入り、奄美大島北方の残敵処理に向かうよう助言されていました。志摩艦隊は補給の為に奄美大島の薩川湾に入港して、ハルゼーの罠に嵌らず、事なきを得ました。しかし、翌17日早朝、米攻略部隊はフィリピンの
スルアン島に上陸を開始し、戦局はにわかに緊迫化して、事態は追撃戦から敵上陸へと180度違った方向へと進んでいきました。志摩艦隊(第二遊撃部隊)は、この状況から捷号作戦(レイテ湾突入作戦)に編入される事となります。

 この航空戦中の15日には、第二十六航空戦隊司令官 有馬正文少将が米空母『フランクリン』に体当たりを敢行しますが、目標に到達する前に撃墜され失敗に終わっています。一式陸上攻撃機に乗り込み、現地で航空戦陣頭指揮を執った有馬少将は、陸軍の疾風70機や爆装零戦16機を誘導指揮していました。指揮官として米空母を見つけ、味方航空機劣勢の状況を直接見ていた少将は、一矢報いんと止むに止まれぬ心境で在ったのでしょう。これ以降、作戦として特別攻撃部隊が編制され、連日の様に米艦隊に突入する事となります。
 第2遊撃部隊の行動概要図。 読み方は下が日付けで、上が通し時間となります。
 タキシング中の零戦の胴体下に250kg爆弾がみてとれます。生きて帰れない同僚を見送る将兵達の姿が印象的な写真で、特に左端の方の帽振れ姿は心に残ります。

 昭和19年10月29日、遠方の
米空母イントレピッドに特攻機が命中した瞬間を、戦艦ニュージャージーから見守る兵士達の写真です。(この瞬間に、散華した日本軍搭乗員のご冥福を御祈りします)米軍の戦力は圧倒的でしたが、神風攻撃による精神不安は、ノイローゼ患者として毎日20名以上の米軍兵士を戦場から離脱させていました。

その他の作戦も、
航空戦略図の下に随時追加していきます。

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