昭和19年に入り、大本営海軍部は戦時編制を改定して、2月15日に第一航空艦隊(司令長官・角田覚治中将)を聯合艦隊に編入します。第一航空艦隊は、基地航空部隊を集中的に移動・運用する目的で昭和18年7月1日に発足した航空隊で、艦戦、艦爆、艦攻、陸攻など定数は1620機を保有する大航空隊ですが、聯合艦隊編入時の実数は530機前後でした。この第一航空艦隊の編入に次いで、2月25日には聯合艦隊主力の戦時編制も改定し、3月1日には第一機動艦隊(司令長官・小沢治三郎中将)を編制しました。第一機動艦隊は空母主体の編制で、『大和』『武蔵』などは補助兵力として空母群をサポートする編制となったのです。
昭和19年5月27日、西部ニューギニアのビアク島にマッカーサー大将指揮下の米第一軍団が上陸を開始。3代目海軍司令長官・豊田副武大将は、「渾」作戦を発動し、第一航空艦隊の飛行機90機と、戦艦『大和』『武蔵』を急遽ビアクに派遣して米軍の進攻を食い止めようとします。ところが6月11日、マリアナ諸島(サイパン)に進出していた第一航空艦隊の飛行機約150機が、米機動部隊の艦載機により、壊滅させられてしまいます。その攻撃は連日続き、ついに6月15日には米軍地上部隊が上陸を開始。この日、聯合艦隊・豊田長官は「渾」作戦一時中止を発令、「あ」号決戦発動を全部隊に発令します。
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日本軍の絶対国防圏は、次々と米軍に占領されて縮小一方でした。アメリカ軍は飛び石作戦を実地し、占領と連絡、輸送網の断絶を謀ります。その最初の基幹作戦がサイパン島の攻略と、基地航空隊、日本軍機動部隊の撃滅でした。連絡と輸送が途切れた基地航空部隊はガソリン・修理材料・補充航空機が無くなり、米軍への攻撃はほとんど出来無い状況に追い込まれました。米軍は思惑通りに自軍被害を最小に止め、日本軍基地部隊の無力化を謀ったのです。日本軍最大の基地ガダルカナルには10万人の将兵がいましたが、移動も帰還もできず自給自足するのが精一杯という状況でした。(移動手段の無い日本軍を孤立させ戦力外に置く、極めて合理的な作戦といえます)
マリアナ沖海戦において闘った日米航空機の比較(航続距離は、日本機側が確かに勝っていました)
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三菱 零式艦上戦闘機52型 (A6M5)
全長 9.12m、 全幅 11m
発動機 中島「栄」21型
最大速度 540km
武装 機銃13mm3挺、20mm2挺
航続距離 3360km、 爆弾 120kg
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グラマン F6F HELLCAT
全長 10.24m、 全幅 13.19m
エンジン P&W R−2800
最大速度 605km
武装 12.7mm機銃6挺
航続距離 2980km、 爆弾 900kg
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空技廠 艦上爆撃機 彗星12型 (D4Y2)
全長 10.22m、 全幅 11.5m
発動機 愛知「熱田」32型液冷
最大速度 580km
武装 7.7mm機銃3挺、 爆弾 500kg
航続距離 2390km
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カーチス SB2C HELLDIVER
全長 11.18m、 全幅 15.17m
エンジン ライト R−2600
最大速度 475km、 爆弾 910kg
武装 20mm機銃2挺、 7.7mm機銃2挺
航続距離 1880km
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中島 艦上攻撃機 天山12型 (B6N2)
全長 10.865m、 全幅 14.894m
発動機 三菱『「火星」25型
最大速度 481.5km、 魚雷 1本
武装 7.7mm機銃2挺、 爆弾 800kg
航続距離 3045km
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グラマン TBF AVENGER
全長 12.2m、 全幅 16.52m
エンジン ライト R−2500
最大速度 436km
武装 7.7mm機銃3挺、 爆弾・魚雷 910kg
航続距離 1960km
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昭和19年6月19日、劣勢の日本艦隊を率いる小沢中将は、新鋭機『零戦52型』『彗星』『天山』など航続距離の長い艦載機の特徴を生かし、米軍機の行動圏外から一方的に攻撃を加えるアウトレンジ戦法を採用しました。(上図参照 日米航空機性能比較)しかし、新鋭機の操縦に慣れる暇も無い敵軍の進撃速度に、操錬切上げ搭乗員が多い機動部隊を投入しなければならない程、時節は切迫していたのです。それでも、小隊長機以上は飛行時間の多い搭乗員を配置して、万全と思われていた計画でした。
作戦当日、小沢艦隊は黎明から入念に索敵を行って米機動部隊を発見。午前7時25分から246機の第一次攻撃隊が、続いて第二次攻撃隊68機、延べ314機の攻撃隊を次々と発進させていきます。米機動部隊との距離は380浬もあり、米軍は日本艦隊を発見していませんでした。ここまでは小沢長官の机上計画通りでしたが、米軍側は高性能レーダーにより200km以上も手前から早々と日本機の接近に気付いていて、米機動部隊(空母15隻)の全戦闘機450機を緊急発進させていました。しかも新鋭戦闘機F6Fヘルキャットを投入し、電波誘導システムで日本機上空まで誘導していたのです。日本攻撃隊の新鋭機操縦錬度は低く、バタバタと撃墜されていく中で、運よく敵艦船上空まで辿り着いたのは少数でした。迎撃機の攻撃をかわした少数の日本側攻撃隊には、VT信管付きの猛烈な対空砲火が待ち受けていて、ほとんどの日本機が撃墜されています。アウトレンジ戦法はレーダーの出現により、遠方からの日本機の来襲を知らせて充分な迎撃体制を敷く事ができた米軍に、さらに有利に働いてしまっていたのです。
小沢長官は攻撃隊突入予想時刻を過ぎても、ただの1機からも戦果連絡が入らないのを不安に感じていました。参謀も無線機の故障であろうと考えていました。少数の帰着機も、敵機動部隊を発見できなかった部隊でした。小沢機動部隊は、なんら戦果を挙げないまま、米空母との間合いをとるため運動中、米潜水艦の伏在海面に進入してしまい『大鳳』『翔鶴』の2空母は魚雷数発を受け沈没してしまいます。翌20日には『飛鷹』も敵攻撃隊により沈没させられ、機動部隊としての作戦能力を完全に喪失します。双方の損害はミッチャー中将側、喪失迎撃機17機に留まり、一方の小沢中将は航空機359機に加え、空母『大鳳』『翔鶴』『飛鷹』の3隻を失うという完敗に終わります。開戦以来、ついに健在の正規空母は『瑞鶴』のみとなりました。(米軍は後に、『マリアナの七面鳥撃ち』と言っています)
小沢中将の机上作戦は、米軍の新電子兵器まで予測していませんでした。そのうえ、日本軍は改編した高性能新鋭機『彗星』『天山』を導入していますが、燃料不足により再建された機動部隊搭乗員の操縦練習も少なかった様です。小沢中将はベテランの少ない艦載機搭乗員の錬度を知っていたはずですが、アウトレンジ作戦を適用する以外の選択肢は残っていなかったのでしょう。仮に、熟練搭乗員が操縦していても、レーダーによる迎撃体制の整った地域に侵入し、米空母まで辿り着いたとしても強力な防御砲火とVT信管により、多くは攻撃まで至らないと思われます。敵兵器情報も全く入らない状態で立案された作戦には、多くの無理と予想外の展開が待っていました。緒戦こそ、多くの戦果を技量で補っていましたが、正確な情報をより多く解析していた米軍に徹底的に敗北しました。この作戦以降、空母に発着艦出来る搭乗員は、少数の生き残りと内地の航空隊教官、病気や負傷による内地送還療養者だけとなり、これ以降は機動部隊としての大きい作戦は事実上不可能となります。この闘いが、日本海軍機動部隊としての最後の闘いとなり、敗戦が決定的となった戦闘でした。
この作戦以降、操縦練習限上げ搭乗員の特別攻撃が作戦として常用されていきます。戦後に結果だけを見て批判はいくらでもできますが、海戦状況の資料が揃うほど、小沢長官は航空兵器に理解の在る数少ない提督だと私には思えてきました。情報が揃わなかった当時の状況では、誰が作戦指揮をとったとて体勢は覆せないと感じています。終戦後も数々の批判に反論もせず、取材も断り寡黙を守り通して武人として生涯を終えています。
下記の、台湾沖航空戦に続く
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