ブーゲンビル島沖航空戦
(山本五十六長官戦死)


この文章・略図は学研『ラバウル航空戦』『死闘ガダルカナル』を参考にしました。
比較検討には、世界文化社『連合艦隊』3冊を参考・編集にしています。
写真は、光人社NF文庫『写真太平洋戦争第5巻』より参考・編集しました。


 ガ島(ガダルカナル)に対する米軍の反抗を甘くみた日本軍は、兵力の小出しを繰り返しては撃退され、ついにガ島を放棄せざるを得なくなってしまいます。一方の米軍は航空戦力を増強し、ラバウルなどの日本軍基地の補給路の遮断を謀っていました。
ヘンダーソン飛行場奪還は失敗しましたが、生き残った約1万人の将兵を飢餓と疫病のガ島から撤退させなければなりません。ガ島上陸総人数3万5千人のうち2万人以上戦病死しており、艦船もこのソロモン海域では敵味方を問わず、輸送船・戦艦・潜水艦など多数が沈没しました。物量に勝る米軍はほとんど制空権を握っており、米などの補給物資の揚陸も昼間の輸送は困難なため、潜水艦による夜間輸送(米軍呼称・ねずみ輸送)を行っていました。

 昭和17年12月31日、最終的にガ島から撤退が決定されます。この撤退は
「ケ号作戦」とよばれ、航空兵力による支援が最も重要な要素で、ガ島方面敵航空兵力の撃滅戦を開始して、撤退作戦を支援援護する事となりました。人員の撤収には、駆逐艦による輸送を3回に分けて実施する事と決定されます。

 明くる昭和18年2月1日、第一次撤収はショートランド泊地より出港して、ガ島の北端エスペランス泊地で海軍250名、陸軍5164名収容。第二次撤収は2月4日、海軍519名、陸軍4458名収容。第三次撤収は2月7日、最後の撤収のため、一兵も残さないよう作業を進め海軍63名、陸軍2576名を収容して無事帰途につきました。昼間には、陸海航空機が3直で警戒にあたり、夜に収容作業を進めたので艦船の被害は駆逐艦「巻雲」の1隻のみに留まり、後の
キスカ撤退作戦とともに、太平洋戦争中の奇跡的成功を収めた2大撤収作戦と言われています。
 
 下の写真は、当時の
ブイン基地零戦隊の物です。写っているのは21型ですが、32型も配備していた様です。

 トラック泊地の聯合艦隊司令部は、何か手を打たなければ現戦線も保持出来ないと判断していました。とはいえ航空戦力の低下した基地航空部隊では打開の目途は立ちません。そこで山本五十六長官は、南太平洋海戦の消耗から立ち直った第三艦隊の母艦兵力を陸上基地に進出させ、基地航空兵力と合わせてソロモン及び東部ニューギニア方面に集中使用し、攻撃を保持している間に補給輸送を促進して、第一線の戦力を充実させようとします。この作戦を
「い号作戦」と呼び、作戦期間は15日間としました。

 山本長官は前線で自ら陣頭指揮すべく、4月3日にトラック泊地よりラバウルに移動します。作戦は過大戦果の報告を司令部が鵜呑みにした事と、5日程の戦闘で50機ちかくも喪失した事により、4月16日には「い号作戦」を早々と切り上げました。「い号作戦」を終えた山本長官は、さらに前線基地慰労と士気を鼓舞する目的でバラレ、ショートランド、ブインの各基地を訪れる予定でした。

 山本長官の行動予定は13日に各地へ連絡され、この無電は米軍の暗号解読班に解読されていてバラレ基地に向かう途中、ブーゲンビル島上空で撃墜されてしまいます。
下写真の右から2人目が幕僚と共に出撃部隊見送り位置に立つ、在りし日の山本五十六聯合艦隊司令長官の写真です。(向かって右側は、宇垣参謀長)

 昭和18年4月18日、米軍ヘンダーソン飛行場から、ジョン・ミッチェル少佐の指揮するP−38ライトニング戦闘機(当時の日本軍兵士はメザシと呼んでいました)がブーゲンビル島に向け
「山本長官機撃墜作戦」のために発進します。下図で解かる様に、日本軍に発見通報されないために陸地を避けて海上を低空飛行しています。山本長官と参謀一行は一式陸上攻撃機2機に分乗し、直援戦闘機6機を従えていましたが午前9時35分に発見され撃墜されます。2番機に乗っていた宇垣纏 聯合艦隊参謀長ら2名は救助されますが、1番機は山本長官を含め、全員戦死しました。

 後に
宇垣参謀長の日記「戦藻録」によると、『1番機(長官機)が急降下して右へ、2番機(宇垣機)は左へと離れ、敵機の攻撃回避で2回ほど大きく旋回したあと、1番機を確認。1番機は4000メートルほど彼方のジャングルすれすれを失速しつつ火と黒煙を噴出していた。2番機は何度目かの敵機の攻撃により機の平衡を失い、再び長官機を探すが、すでにジャングルより一筋の黒煙が立ちのぼっているのが認められた』とあります。

 この時の護衛戦闘機搭乗員6名は、長官機撃墜事件後に責任を執らされる様に連日激戦に駆り出され、2ヶ月という短期間で4名が戦死し、機上負傷により右手首を失い飛行機に乗れなくなった柳谷飛兵長1名だけが、生きて終戦を迎える事が出来ました。(詳しくは
「6機の護衛戦闘機」という文庫本が出版されています)

 昭和18年5月に入り、米軍はアリューシャン列島のアッツ島をはじめ、ギルバート諸島のマキン・タラワ両島に上陸します。アッツ島は同月29日には玉砕していますが、マキン・タラワ両島守備隊は人数も武器も少ないにも拘わらず、マキンは約半年の11月24日まで頑張りました。翌日、11月25日にタラワ島守備隊も玉砕します。(本格的に、米軍の反撃が始まったのです)

 「い号作戦」から7ヵ月後の昭和18年10月28日、「ろ号作戦」が発令されます。山本五十六長官戦死後、古賀峯一大将が聯合艦隊司令長官に着任し、空母機を基地航空隊として転用した「い号作戦」の焼き直し版といえます。この作戦は米軍がレンドバ島に上陸し、これ以上の北上を阻止する計画で立案されています。11月1日、米軍はブーゲンビル島トロキナ岬に米第3海兵師団を上陸させました。ラバウル基地 第201航空隊の零戦と九九艦爆が二次にわたり攻撃しますが、さしたる戦果もありませんでした。

 翌11月2日、
第1次ブーゲンビル島沖航空戦が起こります。1航戦の艦爆18機と零戦65機、11航戦の零戦24機も攻撃にむかいますが被害のみ多く、失敗に終わります。以降11月11日の第6次ブーゲンビル島沖航空戦まで作戦は続けられ、米空母後退を以て12日に「ろ号作戦」の終結を命じました。ラバウル飛行場に残った飛行機は、進出した173機のうち121機が失われ、わずか52機となっていました。搭乗員も進出時は363名だったものが、約180名と半数を失い、再度の艦載機搭乗員育成、機動部隊再建のためにトラック基地へ引き上げる事になります。

 昭和19年2月17日、米第58機動部隊はM・A・ミッチャー提督指揮のもと、日本軍泊地トラック基地を空母9隻からなる攻撃隊で空襲させて、壊滅的打撃を与えます。トラック基地はラバウル基地の重要な後方支援基地であり、トラック基地無しではラバウル基地での作戦活動は不可能でした。トラック基地空襲を機に、昭和19年2月20日、日本国民に親しまれ、戦意高揚映画で知られた
「ラバウル航空隊」は進出から2年余で、その歴史に幕を降ろします。

 山本五十六長官戦死後の2代目聯合艦隊司令長官 古賀峯一大将は、昭和19年2月31日、聯合艦隊司令部をトラック基地からフィリピンのダバオ基地に移す事を決定します。その日の午後10時30分、古賀長官以下司令部幹部は2機の二式大艇に分乗し荒天の中ダバオに向かいました。しかし、古賀長官の搭乗機はそのまま消息を絶ってしまいます。(行方不明となった古賀長官は殉職と発表され、山本長官と同じく元帥に列せられました)このとき、福留参謀長以下の2番機は海上に不時着し、乗員9名はフィリピンゲリラに捕らえられ、重要書類と暗号書が敵の手に奪われるという事態が生じました。古賀長官の任期1年という短期間での殉職と合わせて、この事件は
「海軍乙事件」と呼ばれています。

 追記として草鹿龍之介(南雲部隊参謀長)の従兄にあたる草鹿任一南東方面艦隊兼第十一航空艦隊司令長官の戦後のエピソードを書き足します。開戦時は海軍兵学校校長として内地にいましたが、昭和17年10月、熱帯病に倒れた塚原二三四中将にかわり、第十一航空艦隊司令長官に親補され、航空部隊が引き揚げた後も自給自足をしながら終戦まで同地に留まりました。

 山本長官戦死という訃報に、現地南東方面最高指揮官という立場上、生涯責任を感じていたようです。戦後の昭和45年、草鹿任一提督(当時81歳という老齢)は、南海の果てブーゲンビル島[山本長官機墜落現場]を訪れて「長官、遅くなりましたが、草鹿、ただいま参りました」と香華を手向け、長年苦にしていた責を果たしました。その2年後の夏に、神奈川県鎌倉で亡くなりますが、死ぬ直前まで国を愛した憂国の士だったようです。

下記の、
マリアナ沖海戦に続く

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