南太平洋海戦
(日本海軍が夜戦で敗北)


この文章は、世界文化社『連合艦隊下巻・激闘編』を参考にしています。
比較検討と写真は、光人社NF文庫『写真太平洋戦争第5巻』より参考・編集しました。
略図は学研の『歴史群像太平洋戦史シリーズVolE死闘ガタルカナル』を参考・編集しました。


 一木支隊、川口支隊のヘンダーソン飛行場奪還失敗の報告を受けた大本営は、仙台第二師団(師団長・丸山政男中将)約1万名の投入を決め、師団主力は10月3日から12日までの間にガ島西部に兵員を駆逐艦輸送させます。

 上陸した第二師団は、やせ細り装備もほとんど無くした一木支隊と川口支隊の敗残兵達を見て驚きました。日本には、人跡未踏地など在りませんし、山菜とか小動物などが多く生きていくだけの食料には困りません。しかし、ガ島とは日本人にとって想像外の土地だったのです。生存者が書いた本だったと思いますが、
『緑の砂漠であった』という記述が記憶に残っています。数日後には、自分たちも敗残兵として野山を彷徨する事になるとは、大兵力の第二師団将兵達は考えていなかったことでしょう。

 10月11日、この日本軍の動きを知ったノーマン・スコット少将率いる巡洋艦隊(重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦5隻)はただちに出撃し、日本軍艦艇の捜索に入ります。この日、五藤存知少将の第六戦隊(重巡『青葉』『古鷹』『衣笠』、駆逐艦2隻)もヘンダーソン飛行場砲撃に出動し、両艦隊は夜の9時過ぎにガ島西端のエスペランス岬沖で遭遇。

 夜戦を得意とする日本艦隊に対し、
レーダーを装備した米艦は果敢に挑み、『古鷹』、駆逐艦『吹雪』を撃沈、『青葉』『衣笠』に大損害を与えました。米艦も駆逐艦『ダンカン』を失いますが、その他の艦船では損傷はしますが沈没艦は在りませんでした。レーダー装備の米艦に、日本軍艦隊は得意の夜戦で敗北したのです。(下図 サボ島沖夜戦)

 陸上戦の総攻撃は10月21日夜と決定され、聯合艦隊も支援する為に近藤信竹中将を総司令官に空母『翔鶴』『瑞鶴』『瑞鳳』『準鷹』、戦艦『比叡』『霧島』『金剛』『椎名』、重巡8隻、軽巡3隻、駆逐艦28隻、潜水艦12隻の大艦隊を周辺海域に進出させます。しかし、第二師団の進出は深いジャングルに阻まれて延々として進まず、総攻撃は22日に延期され、さらに23日になり、遂に24日の午後5時となりました。1万余の大部隊を投入した第二師団の総攻撃も各所で米軍に撃退され、またもや惨敗におわります。そして生き残った者は再びジャングル内に戻り、今度は飢餓と疾病に襲われて屍を野にさらす運命が多くの将兵達に待ち受けていました。

 ガ島陸上決戦が敗色濃厚になった26日早朝、陸戦を援護する近藤中将の第二艦隊(重巡部隊)と南雲中将の第三艦隊(機動部隊)は、ソロモン東方海上を南下していました。一方、日本艦隊を求めてトーマス・C・キンケード少将率いる
第16、第17任務部隊(TF16・TF17)は、夜明けを待たずに爆装した16機の哨戒機(急降下爆撃機)を発進させます。午前5時過ぎ、日本艦隊を発見した2機の米哨戒機は「敵機動部隊発見」を打電すると、午前5時40分、そのまま急降下爆撃を敢行。そのうちの1発が軽空母『瑞鳳』の後部飛行甲板に命中し、飛行機の発着艦が不可能となり戦線を離脱させます。

 先制攻撃を受けた南雲機動部隊は、『翔鶴』『瑞鳳』から第一次攻撃隊62機が発進。それより少し前、哨戒機の連絡により米機動部隊も『エンタープライズ』『ホーネット』から攻撃隊48機を発進させていました。そして双方の攻撃隊は空中で遭遇し、激しい空戦を行いながら敵艦船を攻撃。さらに日米双方とも第二次、第三次攻撃隊を繰り出し、両軍とも満身創痍といえる被害が続出していました。最後の攻撃隊は、午後1時33分に『隼鷹』から発進した第6次攻撃隊(零戦6機、九九艦爆4機)で、漂流中の『ホーネット』に250kg爆弾1発を命中させています。

 前進部隊(第二艦隊)唯一の空母『準鷹』(第二航戦司令官・角田覚治少将)は、本隊である第一航戦隊(『赤城』『加賀』無きあと、『翔鶴』『瑞鶴』が昇格)が総攻撃をしても米空母を損傷させただけと知り、正式命令を受けぬうちに勝手に隊列を飛び出します。『準鷹』はグングン速力を上げ、護衛駆逐艦と共に煙を吐いている『ホーネット』に殺到。(最後は、駆逐艦『巻雲』『秋雲』の魚雷で沈めたそうです)

 この海戦(上図 南太平洋海戦)で米艦隊は空母
『ホーネット』沈没、『エンタープライズ』大破、駆逐艦『ポーター』沈没、戦艦、軽巡、各1隻中破、航空機74機喪失という大損害を被ります。日本軍も空母『翔鶴』大破、『瑞鳳』中破、重巡『筑摩』大破という被害でしたが沈没艦はなく、日本側が戦術的勝利を手にしました。日本海軍は、ミッドウェーの復讐戦に勝利し、雪辱を晴らした南雲中将、草鹿参謀長を転出させます。(日本軍は米空母4隻撃沈と思っていました)しかし、航空機の損害は米機74機に対し日本機94機と多かったのです。単に喪失機数が多かっただけでなく、刺し違える勢いの猛烈な攻撃方法により、『翔鶴』飛行隊長 関衛少佐、村田重治少佐をはじめとする、ベテラン搭乗員の喪失は正規空母喪失と同等の損失といえました。艦載機搭乗員育成に時間の係る日本海軍は、この後、搭乗員補充が利かないまま、広い戦域を確保する事になるのです。日本軍機動部隊が敵正規空母を沈めたのは、この闘いで最後になりました。

 この闘いで、『サラトガ』に続き『エンタープライズ』も修理に廻され、作戦可能な空母が無い状態でしたが、先に『エンタープライズ』が復帰し、『サラトガ』復帰まで孤軍奮闘しています。そして『サラトガ』復帰と入れ替わり、『エンタープライズ』も補修と整備が必要と判断した米海軍首脳は、英空母の『ヴィクトリアス』を借り受け、苦しい時期を切り抜けています。この後、1942年末の大型空母『エセックス』を筆頭に、空母だけでも6隻を数える部隊が誕生し、甦った部隊は以前より大きくなり、装甲および防御砲火も強力になっていました。ミッドウェー以降、日本軍に反撃のチャンスが残っていたのは、この時期をおいて他在りませんが、日本海軍もソロモン海域には『隼鷹』しか在りませんでした。第3次まで続くソロモン海戦は、こうした日米両軍の空母および航空事情により勃発したのです。

 余談ですが、日本では軍艦(空母含む)と言えば『大和』ですが、アメリカでは『エンタープライズ』ではないでしょうか。スタートレックに登場して、大宇宙を冒険し活躍していた宇宙船名にも使われています。日本では空母の人気は低く、弩級戦艦として本来の性能を出し切る場面に巡り会えず、未知の可能性を秘めたまま沈没していった『大和』のほうが人気があります。高度な文明を持ったガミラス星人を相手に、宇宙戦艦『大和』として甦えり、人気を博しました。

 上の写真は、日本軍戦果確認機が撮影したもので、一航戦第三次攻撃隊突撃直前の
米第16任務部隊(TF16)を捉えた上空からの写真です。右に傾斜して漂流している『ホーネット』を中心に、周囲を7隻の直衛艦が旋回運動をしつつ対空邀撃態勢を整えている貴重な写真です。(突入前の瞬間に、幾多の搭乗員が同じ様な状景を見たことでしょう・・・)

 ガ島のヘンダーソン飛行場攻撃はラバウル基地から南東540浬(1000km)と遠いので、ブーゲンヴィル島の南東端に
ブイン飛行場を建設します。いくら足の長い零戦でも、空戦を10分程度で切り上げなければ帰還出来なくなる畏れが在ったのです。これにより200浬以上も近くなった事で、ガ島上空の制圧時間の延長ができ、作戦上の効果が期待されました。しかし、敵基地が近いので攻撃される事も多く、地上破壊される列機も多かったようです。

 ラバウル基地の隣、セントジョージ岬には、当時の日本軍としては珍しかった
電波探信儀(レーダー)がよく働き、敵のラバウル来襲を1時間くらいまえから予知していました。米軍は昼間爆撃による被害が予想以上に多いので、夜間爆撃に切り替えます。これに対し、日本軍は海軍「月光部隊」に、陸軍は「屠龍部隊」に斜め銃を装備し、夜間防空戦闘機隊を組織して迎撃体制をかためました。

 米軍は
上陸用舟艇をガタルカナルにも使用しました。上の写真はガ島で使用した物より新型で、改良を加え装甲も厚く75ミリ榴弾砲を装備し、なおかつ舳先が開き戦車を揚陸させるという強力な兵器です(LCM、LSTと呼称)。ヨーロッパ戦線では、有名なノルマンディー上陸作戦にも使用されました。

 この兵器の出現により、
『港湾を敵軍に占拠されなければ重火器の揚陸は無い』との定説は履がえされ、日本軍の浮沈空母的存在であった島嶼飛行場は次々と占拠されていきます。もはや、日本軍の少数精鋭・精神主義など通用しない程の、米軍の物量作戦に圧倒されはじめました。

下記の、
ブーゲンビル島沖航空戦に続く

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