第二次ソロモン海戦
(陸海空ガタルカナル攻防)


この文章・略図は、世界文化社 『連合艦隊下巻・激闘編』及び『日米決戦編』を参考にしました。
写真・略図は、光人社NF文庫 『写真太平洋戦争・第4巻』
を参考・編集しました。
他にも、学研 『死闘ガダルカナル』
も参照しています。


 日本軍の第2弾基幹作戦となる
『FS作戦』は珊瑚海、ミッドウェー海戦による被害が大きく、無期延期となりました。しかし、すでに飛行場建設に着手していた現地航空部隊指揮官は、『ガタルカナル島の飛行場はラバウルを本拠地とするソロモン海の哨戒に有効である、せっかく建設工事を始めたのだから工事を続けさせてくれ』と要望します。日本海軍の上層部は、米軍の本格的反抗は昭和18年中期以降になるであろうと予測し、ろくに防備を施さないまま工事を続行させました。

 ところが、昭和17年8月7日早朝、米軍はツラギに上陸を開始します。同島に近いガブツ・タナンボコ島所在の
横浜海軍航空隊(分隊)は、米軍の急襲により反撃できる航空機も潰滅し、有効な反撃もままならない状況のなか、米第一海兵師団1万5千名にガ島の上陸を許してしまいます。ガ島所在の日本軍は、飛行場建設のために送られた海軍設営隊、若干の警備兵力をもってはいますが戦闘部隊ではありませんでした。(ジャングルに避退)

 この緊急報告を受け、三川軍一中将の第八艦隊と参謀は、指揮下の
第二十五航空戦隊(ラバウル基地所在)に対し、ガ島、ツラギ方面の攻撃を命じます。一式陸攻隊と零戦隊はポートモレスビー爆撃予定でしたが、陸上爆撃装備のまま急遽出撃しました。爆撃を受けた米船団は混乱したものの、陸上爆撃装備のため損害は僅少に留まります。

 それに対応した米軍は、2隻の空母から戦闘機隊を迎撃に挙げました。日本の攻撃機を探していた米戦闘機隊は眼を疑います。ラバウルから爆撃機はとどいても、護衛戦闘機が随伴しているとは思ってもいなかったのでしょう。零戦が片道540浬(約1000Km)も航行できる戦闘機とは、まだ知らなかったのです。そして、この護衛戦闘機隊は
台南海軍航空隊(撃墜王 坂井三郎上飛曹などベテラン多数在籍)で、恐ろしいくらい圧倒的に強かったのです。米戦闘機隊は、あっというまに18機を撃墜され、避退するのが精一杯でした。この時期、まだ零戦不敗神話は健在で、ベテラン搭乗員の技量と相まって、米軍搭乗員には零戦は恐怖の存在でした。

 三川長官は航空攻撃とともに、水上部隊による夜間殴り込みを決意。指揮下水上部隊にラバウル集結を命じ、司令部は
重巡『鳥海』に移乗します。他は重巡『青葉』『加古』『古鷹』『衣笠』、それに軽巡『夕張』『天龍』、旧式駆逐艦『夕凪』の8隻の寄せ集め部隊でした。8月8日午前、ガ島を目指し進撃を開始、途中で敵機に発見されますが、この敵機はオーストラリア空軍のハドソン哨戒機で、無線封止の命令を墨守し、帰投後に報告しています。この為、三川艦隊は無事にガ島に到着できるという幸運に恵まれています。

 そして、現地時間9日の真夜中。日本艦隊は米哨戒駆逐艦の目をかすめ、ガ島とサボ島の海峡を通過。三川長官は午前1時、
「全軍突撃せよ」を下令します。直前に射出していた夜間水上偵察機は吊光弾を投下して米艦隊を照らし出しました。それに加え、旗艦『鳥海』が自艦の危険を顧みず探照燈で敵艦を捕らえ、日本艦隊は南方グループに、次いで北方グループへと的確な砲火を加えていきました。長年にわたる猛訓練による、鍛えに鍛えられた夜間戦闘技量は見事な戦果を挙げていました。この戦闘で南方グループのオーストラリア重巡『キャンベラ』撃沈。アメリカ重巡『シカゴ』は魚雷により大破。北方グループのアメリカ軽巡『ヴィンセンス』『クインシー』『アストリア』の全艦を撃沈しています。日本側の被害は、深照燈を照らしていた『鳥海』が砲撃1弾を受けただけで、被害皆無の一方的勝利でした。

 三川長官はガ島湾内に揚陸している米軍補給船を攻撃していたら、翌日の避退中に航空機により反撃が予想されると判断し、早々と攻撃圏外に避退しました。翌日、安全圏のショートランドまで後退していましたが、米潜水艦『S38』に雷撃を受け、『加古』が沈没してしまいます。

 こうして、
『第一次ソロモン海戦』は一航過で勝敗を決した日本側の圧勝で終わりました。三川長官は、ガ島に揚陸中の米軍補給船を攻撃しなかった事から、この後、転属させられます。米軍側からは、味方艦被害を最小に留めたと評価は高かったのですが、日本軍上層部は敢闘精神に欠けると判断したようです。

ヘンダーソン飛行場に並ぶ
F4F戦闘機(ワイルドキャット)は、格闘戦には不向きですが機体は頑強でした。


旭川歩兵第二十八連隊・
第一梯団(一木支隊916名)は777名の犠牲を出し敗退。
避退した少数の将兵も、食料不足と疫病により日本本土には10名前後しか帰還出来ませんでした。
 第一次ソロモン海戦で勝利しましたが、ガ島の米軍に退却の様子は在りませんでした。日本軍の統帥部は、ガ島の米軍の作戦目的が威力偵察ではないと気付きます。ただし、兵力は一個海兵大隊程度であろうと過少評価をして、旭川の歩兵第二十八連隊長・一木清直大佐の指揮する第一梯団(一木支隊916名)を派遣すれば制圧できると考えていました。派遣された一木支隊は、8月21日の夜、ガ島飛行場(上写真@ ヘンダーソン飛行場のF4F戦闘機)の東側から攻撃を始めました。しかし、米軍はイル川の線で迫撃砲、戦車砲、機関銃などで待ち構えていたのです。突撃は鉄条網に阻まれ、立ち止まれば十字砲火で挟撃されて一木支隊は全滅してしまいます。(一木大佐も軍旗を奉焼し自決。となっていますが連隊本部が全滅の為、真相は不明です。上写真A テナル河畔の砂に半ば埋もれた一木支隊の兵士達)統帥部は現役兵からなる精鋭部隊なので、鎧袖一触で撃破するだろうと考えていた処に、全滅との報にショックを受けます。

 それでも陸軍首脳部は、一個混成旅団も投入すれば勝てる、との甘い判断で次作戦を計画し、歩兵第三十五旅団長・川口清健少将の指揮する川口支隊を派遣します。これに対し海軍は川口支隊(4500名)と一木支隊第二梯団(人数不明)と多くの人員を派遣する為、本格的な船団輸送を組み充分な護衛を付けました。人員を積載した3隻の船団を、第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将の駆逐艦等10数隻が護衛、これを南雲中将指揮の第三艦隊(空母
『翔鶴』『瑞鶴』『龍驤』と高速戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦多数からなる新編成の部隊)が間接護衛し、さらに近藤信竹中将の率いる第二艦隊が前進部隊として前方を警戒していく布陣でした。一方、米軍は日本艦隊の動静を把握して、この輸送を阻止しようと空母兵力を集め、『サラトガ』『エンタープライズ』『ワスプ』第17任務部隊(TF17) 指揮官フランク・フレッチャー少将にまかせます。

 8月24日正午、『龍驤』からヘンダーソン飛行場ヘ向け、攻撃隊が発進。同時刻、米偵察機は『龍驤』攻撃隊を発見し、米空母群は『龍驤』に向け、もてる攻撃隊を全て発進させました。『龍驤』は多数の雷爆撃を受けて浸水傾斜し、夜になって沈没します。米空母を探していた元第五航空戦隊(8月1日より第一航空戦隊)『翔鶴』『瑞鶴』の偵察機は、午後2時にやっと『サラトガ』『エンタープライズ』を発見しました。ミッドウェーと同じく、日本軍は偵察で米艦隊に先手をとられていました。しかし、フレッチャー少将は『龍驤』につづき南雲部隊主力も発見していましたが、攻撃が日没後になると判断し迎撃体制を固めます。

 日本艦隊は第一次攻撃隊(艦爆隊20機)を午後3時過ぎ発進させ日没前に捕捉しますが、敵戦闘機と対空砲火に効果的な攻撃にはなりませんでした。それでも、『エンタープライズ』に
爆弾1発を命中させ、東方に避退させています。止めを刺そうと、果敢に第二次攻撃隊を発進させますが、米艦隊を発見に至らず帰投しました。攻撃隊収容後、前進部隊に夜戦による米艦隊の捕捉撃滅を命じますが、米艦隊はすでに東に向け退却しつつあり、捕捉はなりませんでした。

 3週間後の9月15日正午、サンクリストバル島東海域の散開線にあった
伊十九潜『ワスプ』を発見。距離も方位も後落していましたが、粘り強く接触を続けているうち『ワスプ』が転舵。この一瞬のチャンスに伊十九潜は魚雷6本を発射、そのうち3本が命中し、『ワスプ』は大破口を生じ、数時間後にガソリンに誘爆して味方艦により処分されます。命中しなかった魚雷も遠方にいた(20km)『ホーネット』を護衛中の戦艦『ノースカロライナ』と駆逐艦『オブライエン』に命中し、『オブライエン』は沈没。偶然とはいえ、1回の雷撃で3隻を撃沈破したのは、伊十九潜の執念と努力があったればこそといえます。(米軍は、どこから雷撃されたのか解かりませんでした。酸素魚雷の威力)

 この海戦は、珊瑚海海戦とは逆で、戦術的には日本艦隊の負けでした。戦略的には、ガ島に陸軍川口支隊を上陸させる事が出来たので勝ちといえます。一方、米軍内部では海軍に対する不信の念が起こっていました。それは、サボ島沖海戦(第一次ソロモン海戦)でも、今回の海戦でも上陸部隊を置き去りとも取れる空母部隊の撤退でした。この責任を執らされ、南太平洋軍司令官ゴームレー中将空母機動部隊指揮官フレッチャー少将の二提督は更迭されます。

 しかし、上陸できた
陸軍川口支隊は9月12日の夕方、総攻撃を開始しますが猛烈な反撃にあい敗退。翌13日の夜、残存兵力で再度総攻撃をし、一部の部隊が陣地に突入を果たしますが、各所で被害が相次ぎ、部隊は壊滅の危機に瀕して14日午前11時5分、残存部隊に前線からの撤退を命じ、陸軍十七軍司令部攻撃失敗を報告しました。この後、第三八師団の一部などを強行上陸させて兵力の増強をはかり再度攻撃日を決定しますが、予想以上の密林に攻撃日は延期されます。攻撃失敗と錯誤のうちに、とうとう川口清健少将戦場で免職させられるという異常事態を招きました。(戦力の逐次投入という、戦略の常道から外れた作戦は、この後も続けられます)

 伊19潜の魚雷3本を受け、航空燃料に引火して燃え上がる「ワスプ」。被雷時にガソリンポンプを作動させていたために、一瞬のうちに全艦火の海となってしまいます。そのうえ、第一撃で消化装置も破壊されていたので、ほとんど有効な消化活動もできませんでした。この後、消化の見込みが絶たれた「ワスプ」は、味方駆逐艦の魚雷により処分されます。

下記の、
南太平洋海戦に続く

陸上戦は、徳間文庫『ガダルカナル戦』を読みましたが、一方的で凄惨な戦いだった様です。
文中に登場する陸軍三八式歩兵銃ですが、なんと採用が明治38年だった事からだそうです。
30年以上前に採用された銃を使用していたとは・・・。
他にも、陸軍の作戦では『インパール作戦』なども有名な作戦ですが、ここでは書きません。

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