マレー沖海戦
(英新鋭戦艦轟沈)


この文章は、主に世界文化社『連合艦隊下巻・激闘編』を参考にしています。
比較検討と写真は、光人社NF文庫『写真太平洋戦争・第1巻』より参考・編集しました。
第二十二航空戦隊の飛行ラインは『激闘編』を基に作製しています。


 真珠湾攻撃より2日後の昭和16年12月10日、当時の海戦の常識を覆す事を日本海軍が実践しました。航行中の新鋭戦艦が航空機により撃沈される。これは今日では撃沈できるのが当たり前ですが、高速航行中は雷撃も爆撃も当たりにくく、仮に当たっても戦艦は装甲が厚く、損傷程度で撃沈は出来ないと思われていました。事実、真珠湾攻撃も停泊艦船を攻撃したもので、それ以前にもドイツ空軍がイギリスの
停泊艦船(ネルソン、レパルスを含む)を攻撃し、損傷はさせますが撃沈は出来なかった事実があります。真珠湾攻撃も停泊艦船を攻撃出来る場所、危険をおかしても真珠湾内での攻撃という盲点を突いた作戦となったのです。

 昭和16年7月、極東方面の不穏な動きをアメリカから情報を得ていたイギリスは、南アフリカ経由でシンガポールに戦艦などを回航していました(昭和16年12月2日到着)。12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃のニュースが入り、同日にはタイ国境に近いコタバルに日本陸軍が奇襲上陸をしていました。さらにタイ湾を日本の船団が南下中との知らせが入ります。この夕刻、日本船団撃滅のため
イギリス艦隊『Z隊』『プリンス・オブ・ウェールズ』(新鋭戦艦)、『レパルス』(巡洋戦艦)、そして駆逐艦『バンパイア』『テネドス』『エクスプレス』『エレクトラ』を従えて出撃しました。

 一方、マレー方面を担当した日本海軍の基地航空部隊は、
第二十二航空戦隊でした。第二十二航戦は元山航空隊美幌航空隊の2隊より成っていました。これらの航空隊には九六式陸上攻撃機が36機ずつ配備され、この他にも、第二十一航空戦隊の鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機も、応援のためフランス領インドシナに進出し、第二十二航空戦隊の指揮下に入っています。シンガポールを出撃した『Z隊』の位置は、12月10日の黎明に伊五八潜水艦がマレー半島の南東岸で発見し報告していました。

 翌12月10日の朝(日本時間・午前6時25分)、元山航空隊の九六式陸攻9機索敵攻撃が下命されました。これは敵艦の正確な位置を偵察し、尚且つ余裕が在れば小型の60kg爆弾で攻撃を加えるという事です。やや遅れて、同じく元山航空隊26機(17機は航空魚雷改2搭載、9機は500kg爆弾)も出撃しました。さらに索敵攻撃機より2時間遅れた午前8時30分頃、美幌航空隊の九六式陸攻33機を4つの部隊に分けて離陸させます。最後に発進した鹿屋航空隊一式陸攻26機(全機雷装)を合わせると中型陸上攻撃機84機の空中大艦隊の出撃となりました。

 索敵中の
元山航空隊から、11時45分に敵艦隊発見の報が入ります。
『1145、敵主力見ユ。北緯4度、東経103度55分。針路60度』。

 元山空索敵機が英艦隊を捉えたのは12月10日午前11時45分でした。それから約1時間後、
美幌空白井中隊の陸攻8機が高度三千メートルから『レパルス』に対し水平爆撃を開始。(250キロ爆弾1発命中)攻撃の2番手は元山空の雷撃隊が平均高度30メートルから魚雷を発射、2本が『プリンス・オブ・ウェールズ』に命中しました。敵艦隊は20ノットで右に左に回避運動をとっているのが写真から解かるでしょうか。写真の上に位置しているのが『ウェールズ』で、右横腹から白煙を揚げています。下方の『レパルス』も水平爆撃を受けて付近に水柱が見えます。1・2発は命中しているでしょう。(写真1番下参照)

 英艦隊攻撃に向かう
九六式陸上攻撃機。戦艦先進国のイギリスは、日本の航空隊には撃沈出来ないと考えていました。戦艦『大和』『武蔵』に使われる、超ド級戦艦のド級とはイギリスの戦艦『ドレッドノート』に由来しています。そんな事から、絶対の自信を持って送り出した新鋭艦が、日本の航空機に撃沈されようとは思ってもみなかったのです。

 南方攻略作戦の初期作戦、比島在米軍の攻撃に日本軍台湾基地から渡洋爆撃進撃中の
鹿屋空所属 一式陸上攻撃機。初日の攻撃は、米飛行場クラーク基地の航空機80パーセントを破壊する大戦果でした。


高度三千メートルより水平爆撃を受けている戦艦『レパルス』
 さすがに自信を持って送り出しただけあり、英艦隊の対空砲火は凄まじいものでした。イギリスの艦艇は2年も前からヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に空襲されていたので、十分に対空戦の経験を積んでいたのです。とくに日本機を驚かせたのはヴィッカース社のポムポム砲(高射機関砲)でしょう。このポムポム砲で雷装陸攻は3機が撃墜され、損傷は28機におよびました。陸攻隊は左右から挟撃突入戦法を採用し、『レパルス』は爆弾1発、魚雷13本(英側資料では5発)を浴びて、午後2時3分に沈没(上図の赤旗@)しました。一方の新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』も爆弾2発、魚雷7本を受け、左に傾きつつ9ノットで依然、避退南下。英駆逐艦は隊列もすでになく、各個、避退と迎撃に追われていましたが、『エクスプレス』が『プリンス・オブ・ウェールズ』の乗員救助に近づきました。フィリップス大将に退艦を促しますが「ノー・サンキュー」と答え、艦と運命を共にするという英海軍の伝統に従って退艦を拒否。海軍創設以来、英海軍に範をとってきた日本海軍も、この後、殆どの将官が艦と共に消えていく事になります。

 12月10日午後2時50分、『プリンス・オブ・ウェールズ』はクワンタン沖75浬で爆発を起こして沈没しました。(上図 青旗A)

 戦後のチャーチル首相の手記に、
『第二次大戦中で一番ショックであった』と書かれています。日本軍の宣戦は、アメリカを戦争に参加させた結果となり、ドイツ軍に押し捲られていたイギリスとしては好都合だったでしょう。しかし、日本軍の評価を甘く見積もっていたため、新鋭艦多数を失ってしまいます。日本空母機動部隊はその後も、太平洋からインド洋へと暴れ廻り、1942年4月にセイロン島攻撃時には、イギリス軍空母『ハーミーズ』などを撃沈しています。イギリス軍太平洋艦隊は日本軍機動部隊により、まともな反撃すら出来ないまま消滅しています。空母を使用した機動部隊の重要性を世界に知らしめた作戦でしたが、敵国米軍にも戦艦より空母の建艦を重要視させる事となりました。

下記の、
珊瑚海海戦に続く

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