真珠湾攻撃
(太平洋戦争始まる)


この文章・略図は、主に世界文化社『連合艦隊上巻・勃興編』を参考にしています。
掲載写真・比較検討には、光人社NF文庫『写真太平洋戦争・第1巻
及び、新紀元社 『太平洋戦争海戦ガイド』を参考・編集しました。
他にも、PHP研究所 『歴史街道増刊 真珠湾攻撃』も詳しいです。


 一航艦『赤城』より単冠湾に集結した機動部隊を撮影した写真(昭和16年11月23日朝と思われます)。後方は、『加賀』、中央『飛龍』、右側『蒼龍』。真珠湾攻撃には特殊攻撃艇母艦を含め、合計25隻もの潜水艦も参加していました。


 昭和16年(1941)11月26日午前6時、択捉島(エトロフトウ)の単冠湾(ヒトカップワン)に集結していた第一航空艦隊(南雲機動部隊)は、駆逐艦隊の警戒隊を先頭に、重巡の第八戦隊、戦艦の第三戦隊、潜水艦の哨戒隊、そして最後に空母の第一、第二、第五航空戦隊(搭載機合計380機)が順次錨を揚げて出撃しました。連合艦隊初(世界で最初)の空母を主体とした機動部隊は、補給船も含めると30隻の大艦隊でした。(編制上の空母は、まだ補助艦艇)12月1日に御前会議が開かれ開戦を決定。翌日、作戦開始を12月8日とする天皇の允裁を得、山本五十六連合艦隊司令長官は午後5時30分、洋上の機動部隊に隠語電文「新高山登レ一二〇八」(開戦日を12月8日とする)を打電しました。読み方は(ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ)

 戦いは攻撃隊発艦直後の午前3時42分、米海軍の
掃海艇『コンドル』号が不審な潜望鏡を発見した事から始まっていました。この潜望鏡は日本の第六艦隊(潜水艦部隊)が放った特別攻撃隊特殊攻撃艇5隻のうちの1隻と推定されています。掃海艇『コンドル』号は近くを哨戒していた駆逐艦『ワード』に発光信号で報告して、捜索させましたが見失ってしまいます。

 そして午前6時30分過ぎ、再び捜索を続けていた『ワード』は遂に潜望鏡を発見しました。『ワード』はためらいなく砲撃を加えましたが、1発目は外れ、2発目が司令塔に命中した模様。さらに爆雷を投下し、午前6時45分、この小さな潜水艦を撃沈しました。この5隻の特殊潜航艇乗組員10人の中で助かったのは、艇のジャイロコンパスの故障から南東のベロース基地付近の海岸に座礁した
酒巻和男少尉だけでした。(不測にも捕虜第1号となりましたが、戦中には自決者の説得や通訳となり、多くの日本軍将兵の命を救った人です)

 午前6時53分駆逐艦『ワード』の艦長はハワイ地区の海軍司令部に緊急電を打ちますが、報告は司令部員の誤解や形式主義にさえぎられ、アメリカ太平洋艦隊司令部に届いたのは午前7時20分でした。その間の午前7時3分にも『ワード』は音波探知機で新たな特潜を発見、爆雷攻撃を加えて撃沈数を増やしていました。日本の攻撃隊にとって僥倖だったのは、報告電報はさらに太平洋艦隊司令部で20分眠り、
司令長官キンメル大将の受話器に届いたのは7時40分を過ぎていた事でしょう。

 この特殊攻撃艇・小型潜水艦は、日本内地で『九軍神』として大々的に宣伝され、国民の戦意高揚を謀りました。でも、なぜ9人の死亡が日本軍に判明したのかと思いませんか。
 実は、日本軍は米軍のラジオ放送で、特殊攻撃艇乗組員の捕虜が一人居る事を知らされたのでした。

 下図@は日本聯合艦隊の航跡図で、時間は日本時間で表記しています。攻撃隊発進12/8(0130)とは日本時間12月8日午前01時30分の事で、ハワイ時間では12月7日午前6時となります。下図A 攻撃隊進入コース(ここからの時間経過はハワイ時間で記しています)

 日本軍機動部隊は攻撃機発艦予定地点に到達し、航空母艦から
第一次攻撃隊の183機は各集団ごとに集合、機動部隊上空を大きく旋回したのち、6時15分ハワイを目指して進撃を開始します。攻撃隊は水平爆撃機隊を先頭にし、その右後下方に雷撃隊、左後下方に急降下爆撃隊という隊形をとっており赤城分隊長 板谷茂少佐の率いる43機の制空隊は、これら集団の上空500メートルに占位してハワイに迫って行きました。


 ハワイ時間7時40分、攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬沖に到達、7時49分、攻撃部隊総指揮官 
淵田大佐機から攻撃隊全機に全軍突撃を命じるト・ト・トのト連送が打電されます。続いて艦隊司令部宛の隠語電文「トラ・トラ・トラ」(我奇襲二成功セリ)が打電されました。制空隊は雷爆撃隊を援護するため3群に分かれ、真珠湾上空、ホイラー飛行場、カネオ飛行場に向かい、攻撃隊上空で敵戦闘機の反撃に備えていましたが、予期していた敵戦闘機の反撃もほとんど無かったため、飛行場の機銃掃射を敢行します。

 そして
第二次攻撃隊167機が発艦したのは、第一次攻撃隊が発艦してから1時間15分後の7時30分に進撃を開始。8時40分、オアフ島北端のカフク岬東方沖合に到着し、8時58分全軍突撃下令が発令されました。第一次攻撃隊とは状況が異なって、炎上した敵機や艦船の煙がたちこめていたうえ、対空砲火も熾烈だった様です。第一次攻撃隊(損失機9機)は完全に奇襲となり、反撃もほとんど有りませんでしたが、第二次攻撃隊は反撃体制がある程度整っていた処へ攻撃した為、損失機20機と多くなってしまいます。母艦に帰着被弾機の中でも急降下爆撃機隊の損害が約半分を占めていましたが、空母部隊の空戦爆撃技量など、世界一の実力があったからこその大戦果とも言えます。


 華々しい戦果に彩られた攻撃成功の陰には、帰還できなかった29機・54名の犠牲がありました。内訳は、
第一次攻撃隊183機が出撃しましたが、零戦3機(赤城所属機1機・加賀所属機2機)、九七式艦攻5機(全機加賀所属機)、九九式艦爆1機(翔鶴所属機)の、合計9機が未帰還となっています。

 続く
第二次攻撃隊は、第一次攻撃隊の奇襲とは状況は異なり、ある程度の反撃体制のある場所への攻撃となった事から、損害も167機出撃中、20機が未帰還となっています。内訳は、零戦5機(加賀所属機2機・蒼龍所属機3機)、九九艦爆15機(赤城4機・加賀6機・飛龍2機・蒼龍2機)となっています。敵機との格闘戦で機位を失い、帰還できないと判断して敵陣に反転突入した石井三郎二飛曹や、不時着予定地域のニイハウ島で一晩を過ごし、翌日、現地でかくまった在留邦人と共に、現地人との銃撃戦に倒れた西開地重徳飛行兵曹らもいました。その他には、特殊潜航艇5隻での9名も戦死(1名捕虜)しています。

 被害が少なかったのは翔鶴(九九艦爆1機)と、全機無事帰還した瑞鶴でした。瑞鶴は、すでに航空隊にとっても幸運艦であった事が伺えます。逆に、最も被害の多かったのは加賀所属機の15機で、被害全機数の約半分でした。


 
米戦艦アリゾナは空襲初期に数本の魚雷が左舷側に命中し、さらに800kg徹甲爆弾5発を受け、そのうちの1発が2番砲塔火薬庫で爆発、瞬時に爆沈しました。(沈没までが早く、乗員の1178人を失う大惨事)

 被害が大きかったので浮揚は断念され、完全喪失となりますが、戦後の1962年に沈んでいた
船体に記念館が設けられ、今日でも観光名所となっています。被害を受けた戦艦8隻のうち、6隻は復旧され、大戦後期の攻略作戦に使用されました。米軍にとって幸運だったのは、見た目には全滅ですが主力空母全艦が不在だった事と、真珠湾が浅かった為に着底しても修理可能だった事でしょう。緒戦で主力戦艦を使えなくなった米軍は、空母を主体とした作戦に切り替え反撃してきます。それに加え、嫌戦気分の国民を宣戦布告無く騙まし討ち『リメンバー・パールハーバー』という合言葉のもとに戦意高揚をさせてしまいました(米陸軍・海軍とも志願兵が殺到)。

 ヨーロッパ戦線でも、イギリスはドイツに押されていてアメリカの参戦を待っている状況でした。この日本の参戦により、1番喜んだのはイギリスのチャーチル首相でした。転がり出した歴史の歯車を止める事が出来ないまま、日本は資源を求めて次期作戦
(南方作戦)を進めていく事になるのです。

下記、
マレー沖海戦に続く

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