昭和19年10月17日、米軍はスルアン島に上陸を開始しました。米軍襲来の報は、スルアン島の海軍監視哨から大本営へと伝えられ、フィリピン方面での決戦『捷一号作戦』を発動。後に、レイテ突入作戦とも言われ、栗田部隊が謎の反転をした海戦として御存知の方も多いと思います。捷号作戦とは、昭和19年7月18日に東條英樹内閣が倒れ、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大将の両人による連立内閣が決議した国防作戦の一環でした。
米軍の『レイテ上陸作戦』は12月の予定でしたが、9月12日にハルゼー大将は、率いる第38任務部隊でセブ島を攻撃したところ、予想以上に日本軍の航空戦力が低下している事を看破し、レイテ上陸作戦を繰り上げ実施したほうが良いとの意見をニミッツ提督に緊急打電するに至りました。そこで検討した米国中央統帥部は、『飛び石作戦』のヤップ・タラウド・ミンダナオへの上陸計画を取り止めて、10月中旬にレイテ進攻を実施するようにマッカサーとニミッツに指令を出しました。そこで、威力偵察ともいえる、スルアン島を手始めに攻略開始となったのです。その進攻を食い止める作戦が『捷一号作戦』でした。
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栗田健男中将率いる第1遊撃部隊(@)は10月22日午前8時にブルネイを出撃。10月25日黎明を期してレイテ湾に突入、米上陸部隊を壊滅するべくレイテ湾を目指しました。栗田艦隊に呼応して、午後には西村祥治中将率いた第1遊撃部隊第3部隊(B)もレイテ湾目指し、スリガオ海峡に向かいました。しかし、北東に長細いパラワン島の中間地点で、早くも米潜水艦『ダーター』に発見されて、『愛宕』『高雄』が被雷し、『愛宕』は沈没。『高雄』は駆逐艦に護衛させ、ブルネイに後退します。本隊はその後、何事も無く進撃を続けて、24日の夜明けには米艦載機攻撃圏内のシブヤン海に到達しました。志摩清英中将率いた第2遊撃部隊(A)は、先の台湾沖航空戦により、奄美大島から出撃し、米軍に気付かれる事なく進撃していました。迎える米軍は、W・F・ハルゼー大将率いた第38任務部隊が1〜5群とキンケード中将率いた第7艦隊の大部隊が上陸援護を行なっていました。
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10月20日に瀬戸内を出撃していた小沢治三郎中将率いる『囮機動部隊』は、24日にはエンガノ岬沖に到達。栗田艦隊のレイテ突入を助けるため、米機動部隊を引き付ける役目でした。午前11時45分に57機の攻撃隊を発艦させますが、ほとんど米迎撃機に撃墜され、かろうじて数機が攻撃を行いますが戦果は得られませんでした。一方、西村艦隊はミンダナオ島北部のスリガオ海峡に侵入しますが、エンタープライズの攻撃隊により『扶桑』『時雨』が損傷を受けます。志摩艦隊は、距離が離れていた事で、難を逃れています。シブヤン海の栗田艦隊は米軍に主力と判断されて、攻撃機も『大和』『武蔵』に集中。特に『武蔵』の損傷が酷く、速度が遅くなるほど集中攻撃を受け、他艦も被害続出の壊滅的打撃を受けていました。栗田艦隊は、いったん米機の攻撃を避けるため、午後3時30分、西に反転します。米索敵機は、24日夕刻に小沢機動部隊を発見します。栗田艦隊は壊滅、敗走に転じたと連絡されたハルゼー大将は、これこそ日本軍主力と判断し、隷下の艦隊のほぼ全力をもって北上を開始しました。
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小沢機動部隊による、米機動部隊の吊上げに成功した事で栗田艦隊には米機の攻撃が無くなり、午後5時40分に再反転を命じ、再びレイテ湾を目指します。米軍第7艦隊は、栗田艦隊とは別の日本艦隊(西村艦隊)が南のスル海を東進しているという情報により、スリガオ海峡の入口に高速魚雷艇39隻を配備。さらに海峡中央部には3個駆逐艦隊26隻を、そして最深部に旧式戦艦6隻、重巡4隻を配備して待ちうけました。午後2時過ぎ、西村艦隊がスリガオ海峡に侵入して戦闘が始まりますが、4本の魚雷により『扶桑』が沈没。雷撃で『山雲』も沈没。さらに、『満潮』『朝雲』が操舵不能に陥り、後の米機により撃沈されます。残る『最上』『山城』『時雨』は米戦艦群に集中砲撃され、たちまち炎上し、『時雨』1隻のみ脱出に成功しました。遅れた志摩艦隊も海峡に侵入しますが、魚雷艇の雷撃とか回避中の味方艦同士(『最上』『那智』)の衝突により、レイテ突入を断念しました。衝突の原因は、『最上』の艦橋が破壊され、操舵指揮できる状況にはなかった事だと思われます。(『スリガオ海峡海戦』)
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上図Bの拡大地図を製作しました。
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米艦載機の攻撃により、あまりに被害が大きく一時西方に反転避退した栗田艦隊は、米機の攻撃が収まったのを確認し、再度反転してレイテ湾に航路をむけます。被害の大きい『武蔵』には、米攻撃機第3波が過ぎたおり、馬公(現・澎湖島)に避退を命じました。しかし、その後、米軍の5波にわたる激しい攻撃で、合計20本の魚雷と17発の直撃弾をうけた戦艦『武蔵』は、19時35分、左に横転してシブヤン海に沈没しました。
一方、再進撃している栗田艦隊は、『武蔵』が沈没した事は知らぬまま、25日午前0時にはサンベルナルジノ海峡を突破して太平洋サマール島沖に進出。栗田艦隊にはレイテ湾の敵状も、味方艦隊の状況報告も全く無い中をサマール島沖を南下。午前6時45分、『大和』は水平線の先で米空母数隻の飛行甲板から、飛行機が発進している様子を捉えます。これはクリストン・F・スプレイグ少将の指揮する護衛空母6隻(上写真・弾幕を張る護衛空母群)を基幹とした第77任務部隊第4群第3集団でした。栗田中将は敵主力空母と判断し、距離が3万1千メートルとなった6時59分、『大和』『長門』が砲撃を開始します。(この時が『大和』の敵艦に向けて、初めてで最後の主砲発射)しかし、スコールと弾幕によって展望が利かず、有効な打撃を与えぬうちに見失ってしまいました。
それでも、速力の速い重巡部隊と高速戦艦『金剛』『榛名』は米護衛空母を追いかけ、熾烈な戦闘のなかで遂に『羽黒』が砲撃により護衛空母『ガンビアベイ』を撃沈しました。この間にも『鳥海』『熊野』『鈴谷』『筑摩』『羽黒』などが艦載機による攻撃で損傷を受けています。(後に『鳥海』『筑摩』『鈴谷』の重巡3隻は沈没)乱戦が続き、これ以上の戦闘はレイテ湾突入の時期を逸すると判断した栗田中将は、午前9時過ぎに追撃中止命令を出して部隊の再編を計りました。(『サマール島沖海戦』)
サマール島沖海戦後、再編された残存艦隊は戦艦『大和』『長門』『金剛』『榛名』・重巡『羽黒』『利根』・軽巡『能代』『矢矧』と駆逐艦8隻で、ブルネイ出撃時の半数になっていました。乱戦により再編に1時間以上かかってしまい、再進撃を始めたのは午前11時と遅くなったうえ、新たな米機動部隊発見の報告が飛び込んできます。この情報を基に、北に反転、報告区域に到達しますが何も発見できないままレイテ突入時期を逸したと思ったのか、突入を断念。栗田中将は進撃ルートを逆に辿り、ブルネイへと帰ってしまったのでした(謎の反転)。
アメリカ軍側レイテ湾上陸支援の米軍第7艦隊のキンケード中将は、サマール沖に日本艦隊が出現したという報告に驚きます。しかも、サンベルナルジノ海峡を抑えていたはずのハルゼー大将の機動部隊がどこにもいない。在るだけの航空兵力を集めて、栗田艦隊を執拗に攻撃をかけている最中、栗田艦隊の謎の反転により事無きを得ました。米軍主力空母部隊がいない状況で、栗田艦隊にレイテ湾内に侵入されていたら揚陸部隊にかなりの被害が出た事でしょう。レイテ湾まで80kmという近距離で反転、(25日午後12時36分)ここまで多くの犠牲を出しながら・・・?
小沢『囮』機動部隊に北方に吊上げられたハルゼー大将の第38任務部隊は、午前7時30分に小沢艦隊を発見しました。ハルゼー大将は艦上戦闘機60機・艦上爆撃機65機・艦上攻撃機55機の合計180機の大部隊を出撃させています。受ける小沢艦隊は前日24日の攻撃後、直衛の零戦18機以外は陸上基地に移動させていました。午前8時15分、米攻撃隊が小沢機動部隊に到達。戦闘は1時間程度続き、旗艦『瑞鶴』が魚雷1本・爆弾2発を受けて通信機能を喪失していまい、小沢中将は軽巡『大淀』に移乗して艦隊の指揮を継続しました。小沢長官は『囮』作戦成功を知らせる、無電を打ちますが、聯合艦隊司令部にも栗田艦隊にも届いていませんでした。無電は『瑞鶴』が被害を受けたため、応急電信機により『瑞鳳』を中継して行なわれましたが、『瑞鳳』も被害を受けて乗組幹部全員戦死して真相は確定できません。この事が、後の栗田中将の状況判断を迷わせ、謎の反転行動につながったのではないでしょうか。
小沢『囮』機動部隊は午前10時頃に第二次攻撃、午後1時過ぎには第三次攻撃を受け、空母『瑞鶴』『瑞鳳』『千歳』・駆逐艦『秋月』が沈没。さらに、止めを刺すべく米軍第38任務部隊から巡洋艦部隊を分派させ、行動不能に陥っていた『千代田』『初月』『多摩』を撃沈しています。航空機の傘の無い艦隊が、いかに脆いかが如実に解る一方的な戦いとなりました。
日本側航空機の攻撃は艦船の傘としてではなく、側方支援としてフィリピンの陸上基地からの攻撃機(特攻機含)として米艦船に多数の被害を与えています。他にも陸上基地から発進した彗星艦爆が、米軽空母『プリンストン』の後部エレベーター付近に250kg爆弾を命中させました。2層の飛行甲板を突き抜け、格納庫内の搭載機に火が点き、航空魚雷が誘爆して炎上後、大爆発をおこして自沈処分されています。特攻機に突入された米艦船には、護衛空母を含む『スワニー』『セント・ロー』『サンティー』『エセックス』『ベロー・ウッド』『オマニー・ベイ』などが被害(沈没含)を受けています。
日本陸海軍総力を挙げて米軍上陸阻止を謀りましたが、逆に航空機・艦船は壊滅的打撃を受け、軍令部には次作戦を行なう余力は残っていませんでした。(『エンガノ岬沖海戦』)
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写真左から、午後1時27分、傾斜21度の空母『瑞鶴』甲板上で万歳を叫ぶ乗組員達。
右は右舷後方から煙を吐きつつ奮闘中の空母『瑞鳳』。(貴重な迷彩模様写真)
左に倒したマスト類から推測すると、すでに右に傾斜しているようです。
瑞鶴について詳しくは光人社・神野正美著作 『空母瑞鶴』を御薦めします。
昭和19年6月から始まる本文ですが、幸運艦の戦歴や最後の闘いの様子。
さらに、沈没後の漂流者救助の状況など米側資料と併記されていました。
特に私の関心を引いたのは、『初月』の沈没状況です。
『初月』は、同じように『瑞鶴』の乗員救助をしていた『五十鈴』『若月』を逃がすべく、
単艦でアメリカ側軍艦16隻を相手に闘いながら敵と闘って沈没していたのです。 |
昭和19年10月25日、サマール島東方海上で米攻撃機の攻撃をかわす戦艦『大和』の雄姿。
このように大きな戦艦で、敵攻撃機をかわし、傷つきながらも内地に帰れたのは奇跡に近い事だと思います。 |
小沢治三郎中将は先のマリアナ沖海戦により、機動部隊に積載する艦載機・搭乗員もほとんど在りませんでした。任務は米軍レイテ上陸部隊を阻止する日本軍主力・栗田艦隊の援護(囮となり、米軍戦力の分散を図る)でした。『囮』計画は成功しますが、小沢部隊が予想以上に早く壊滅的ダメージを受け、連絡に齟齬をきたした事から栗田艦隊は突入地点手前80kmで反転。
戦史で、もしは在り得ませんが、レイテ湾突入に成功していたら米軍の進攻は違った形となっていたでしょう。大和もレイテで沈み、後の沖縄戦・大和海上特攻も起こり得ません。ある本には、栗田長官は司令部の命令に背いてでも、艦隊決戦で大和に死に場所を与えるための反転だったのではないか・・・と書かれていました。戦後、栗田長官も小沢長官も何も語らず、批判に反論も無いまま余生を全っとうしています。
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