特別攻撃兵器
(戦局の挽回を図る特殊兵器)
この文章・写真は、世界文化社『連合艦隊下巻・激闘編及び日米決戦編』より引用しています。
比較検討には、光人社『梓特別攻撃隊』及びPHP文庫『日本陸海軍航空機ハンドブック』を参考にしました。
さらに、文林堂『海軍陸上爆撃機[銀河]』。グリーンアロー出版社『日本陸海軍試作・計画機』も参考にしています。
昭和19年10月から日本軍は特別攻撃(体当たり)を行い、やがて特攻は戦術として常用化されます。
昭和20年から終戦まで特攻兵器による隊員達の一撃必殺の訓練が始まりました。
特攻に関する書物は多くの出版社から出ていますが、著作者による解釈は様々です。
ここでは特攻に使用・開発された主な兵器を紹介しています。
上陸舟艇攻撃(爆撃)機『剣』は、1番下に掲載しています。
特別攻撃(体当たり攻撃)が考えられたのは、戦局が傾き日本軍の劣勢がはっきりしはじめた昭和18年半ばからでした。先鞭をつけたのは海軍で、最初に零戦に爆弾を積んでの出撃は、翌19年10月25日のレイテ沖海戦のときになります。『捷号作戦』とよばれる栗田艦隊のレイテ湾殴り込み作戦を、側方援護するために組織された『敷島隊』が最初でした。 桜花は、沖縄戦から投入されました。母機となる一式陸上攻撃機の爆弾倉に上半分めり込んだ状態で格納されています(人間が操縦して、爆弾もろとも自爆するという戦史に例を見ない冷酷な兵器)。西日本に来襲した米機動部隊『第58任務部隊』に猛攻をかけた日本海軍『第5航空艦隊』は、昭和20年3月21日、止めとするべく『神雷桜花特別攻撃隊』を投入しました。出撃18機中の15機が桜花を腹に抱いていましたが、援護の零戦に故障が多く、50機の予定が30機と少なくなり、敵艦隊の上空制圧ができず母機と共に全機撃墜されています。 |
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桜花隊の正式名称は『第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊』と長くなります。15機出撃すれば、桜花搭乗員15名・母機搭乗員135名と総計150名にもなりますが、護衛戦闘機・哨戒機・戦果確認機などを含めれば1回の出撃で200名以上が直接攻撃に係わっていました。しかし、西南諸島沖の米海軍第58任務部隊は迎撃機を発進させ、桜花を発進させず撃墜しています。桜花は、敵艦隊が見える数十キロ手前で切り離し、火薬ロケットに点火して加速する構造でしたが、燃焼時間9秒と短いため、実際には滑空グライダーの様な物でしょう。この攻撃以降も散発的に投入されてはいますが、日本への侵攻を断念させる程の戦果は挙げられていません。 『桜花11型』 全長 6.066m、 全幅 5.12m、 全高 1.16m 全備重量 2.140kg、 最大速度 612km、 弾頭爆弾 1.200kg |
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海軍陸上爆撃機 『銀河』は、世界で唯一1機(11型)が現在でもワシントンのポールE・ガーバー保存修復施設に保管されています。昭和20年3月11日、鹿児島の鹿屋基地から無着陸で直接敵空母泊地ウルシーを攻撃する『丹作戦』が発動され、銀河24機が発進します。片道1360海里(約2500km)という長距離爆撃が可能な『銀河』による特攻隊でした。昼に彩雲で偵察を行い、もう1度二式大艇による直前偵察の手筈でしたが、引き返せない位置に進出しても確実な情報は入らず、米空母所在が判明しないまま進撃を続けます。途中、ヤップ付近で高度500mに落とし、レーダー検知から逃れる手筈でした。しかし、米軍は100km手前で検知しており、夜戦迎撃機を上げていますが運良く遭遇せずに突入に成功しています。日本時間18:56 『全軍突撃セヨ』を隊内電話で打電。19:07に正規空母『ランドルフ』の後部甲板に激突し、被害を与えますが沈没には至りませんでした。(詳しくは、光人社『梓特別攻撃隊』を御読み下さい) | |
ベニヤ板を主材料に造られた爆装モーターボート『震洋』。海上兵器なので海軍かと思っていましたが、陸軍でも同様の特攻兵器を『C肉薄攻撃艇』として生産しています。本土決戦に使用するために、1人乗りの1型と2人乗りの5型が6200隻も生産されていました。(使用実績は無いと思います) 『震洋』 乗員1名 全長 5.1m、 全幅 1.67m、 速力 23ノット |
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緒戦の真珠湾攻撃に参加していた甲標的(特殊潜航艇)の発展型『海龍』。写真は『海龍』ですが資料が無く、同じ潜航艇の『蛟龍』は資料のみ。『蛟龍』は終戦前に民間の造船所に命じて大量生産の予定でしたが、結局150隻程度の製造に留まり、実戦参加は3隻だけでした。残りのほとんどは本土決戦に使用される予定で温存していました。(殆ど使用されていない事が救いです) 『蛟龍』 乗員5名 全長 26.25m、 全幅 2.04m、 水中速力 16ノット 他にも、人間魚雷『回天』、陸軍特攻専用航空機『剣』など在りますが、随時追加予定です。 |
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中島 (キ−115)上陸舟艇攻撃(爆撃)機『剣』 通説では『昭和20年1月、陸軍は中島に特別攻撃機の開発を指示しました。機体の材料は、資材不足から鋼管・木材などで構造も簡単な物となり、主脚の部分は離陸後に投下する設計となっていました。』 しかし、最初から特攻機として開発されたのではなかったのでは・・・?(こちら)。開発者として『剣』は、用兵側に不本意な使われ方をした飛行機で、開発段階で特攻機では無かった可能性は高いと思えました(航続距離など)。詳しくは光人社 青木邦弘技師著作『中島戦闘機 設計者の回想』を読んで御判断下さい。 全幅 8.60m、 全長 8.55m、全高 ? 全備重量 2.630kg、 最大速度 550km/h 爆弾 500kg〜800kgx1 |
海軍特別攻撃の実質的責任者は、大西瀧治郎中将だと言われています。
しかし、当時でも尋常な作戦と言えるはずも無い作戦の、責任の落とし処が中将だったのではと思えます。
一中将が、立案決定できる程の軽い作戦とは思えません。
大西中将は
日中戦争で、第二連合航空隊司令官として中国奥地への攻撃を指揮しました。
太平洋戦争では、真珠湾攻撃の計画立案を山本長官から密かに命じられています。
山本長官亡きあと、戦局も逼迫してきた昭和19年10月25日に、『捷号作戦』支援のため、
初めての特別攻撃が実行され、関行男大尉を指揮官とした敷島隊を発進させています。
最初こそ、奇襲攻撃として戦果を挙げていますが、後には・・・。
中将は、終戦の翌日に官舎で自刃、介錯を拒み15時間苦しんで絶命したと言われています。
自らの作戦(特別攻撃)を『統率の外道』と言い、辞世の句は
『之でよし百万年の仮寝かな』
特別攻撃が決定された時から、送り出す部下と共に死を覚悟していたのでしょう。
多くの武功を残した人だけに、末路が憐れでなりません。
賛美はしませんが、日本軍で最後の武人の1人だったと思えます。
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