それは、いわゆる一つの愛の形、あるいは狂気

周との戦を目前に、殷の都、朝歌には各地から多くの兵士が召集されている。この数年の度重なる増税に苦しむ農民は田畑を捨て、わずかな食い扶持とささやかな栄達を夢見て都へとのぼってくる。その結果、兵士相手の娼婦にヤミ屋まがいの商人がそこらかしこにあふれ、荒廃した農村部にくらべ、都は一種異様なにぎわいを見せていた。貧困と享楽、荒廃と戦への熱気、様々なエネルギーが混在している都、朝歌。今の朝歌にはかつてここに存在していた美しい秩序も礼節も失われて久しい。
その繁華街のはずれに位置する軒猿廟。薄暗い本堂には線香の煙りがあつくたちこめ、終日お参りにくる人の影がたえない。ほとんどが、年老いた老人か、生活に疲れ果てた様子のみすぼらしい女の姿ばかりだった。けたたましい銅鑼や鐘の音が辺りに鳴り響き、そのなかで人々は神に祈りを捧げる。
透明で純粋な神への祈りの声。彼等は何を祈るのか、戦地へ赴く大切な者の無事を祈るのか。殷の勝利、はたまた戦の終わり…
しかし、遠く回廊を隔てた奥の神殿には、市街の喧騒も人々の祈りの声も遥か遠くの異国の音のようにしか響いてこない。
「誰に何を祈ると言うのだ。お前達が祈りを捧げる仙道こそが、この戦の元凶ではないか」
「くくく…」
押し殺した笑い声に、私は苦々しく背後の男を振り返った。素朴な彫刻を施した簡素な榻の上に、男は長々とその身を横たえ、枕に顔を埋め肩を小刻みに震わせていた。
外に向かっていっぱいに開け広げられた窓からは、明るすぎる真昼の陽光が紗の帷を透して差し込んでいた。強い日ざしは男の体の上にくっきりと縞の陰影を描き出す。風が薄い帷をふくらませた。
男は顔をあげた。
「確かにその通りなのですが、貴方は、自分自身も仙道であることを忘れてはいませんか」
「私は、やつらとは違う」
―少なくとも私は、私の仙道としての力を民の為に使用している。
「太公望も同じことを言うでしょうね」
男の言葉は鋭い刀のように容赦なく私を傷つける。
「貴様こそ、人間界にいて何をするでもない、その力を人々の役にたてるわけでもないではないか」
「別に、私は、私が楽しければそれで好いんです」
「最低な男だな」
「ええ…そうですよ」
男は私に手をのばす。差しのべられた手を、私ははらうことができない。

情報の海の中。交差するネットワークの線。明滅する曲線は、美しいストレンジ・アトラクタを描く。増殖と消滅、小さな渦は大きな渦に呑み込まれ、その渦もまたさらに大きな渦に呑み込まれる。すべては連綿とつながりながら繰り返される永久運動。
私は、処理能力の限界ギリギリまで自分を解放する。やはり、聞仲のように天数に強く影響を及ぼす因子と交わることは負荷が大きい。
加速する情報の波に、白熱する脳内神経系。膨張した思念は、急速に収束する。
全身を貫く衝動。体が芯からうちふるえる。全細胞が狂喜する。絡み合い、登り詰める、高く、高く。
その刹那いくつものビジョンが私の脳内に浮かんで消えていった。
城壁の上、切り落とされた紂王の首が空に舞い、興奮した民衆から押し寄せる熱狂の風。
赤い落日。峡谷の上から聞仲の体が木の葉のように舞い落ちる。岩場に赤く砕け散る体に、飛んでいく白い魂魄。
未来視。
「ああ…」
聞仲に抱かれるたびに私は何度もこのビジョンを反芻する。初期設定値と、複数の環境要因の干渉から導かれる予定調和な未来。
聞仲の存在は、人間界と言う系における歪みだ。ある一つの系におけるわずかな位相のずれは、時間軸の進行にともない拡大再生産的に増幅され、予測のつかぬ未来を導きだす。
天数と言う名の確定した未来。未来視の夢。
一体、私は未来視がはずれることを望んでいるのか。
「なぜ、泣いている?」
「泣いている?私が」
聞仲が私の頬に手を当てて、涙を拭った。そうして私は初めて自分が泣いていることに気付いた。私は、彼の手を邪険に払い除けると、身を起こした。
彼と体を重ねることは、苦痛以外の何ものでもない。
この苦しみこそが、私の喜び。この哀しみこそが、私の生きる証。
「629年」
私は呟いた。
『殷王朝は、第31代皇帝、紂王の代を持って629年の天命を閉じる』
告げるつもりはなかった。告げたところで彼が殷を見捨てることができないことを私は十分分かっていた。いや、彼はすべてを知ったうえで尚かつ、この国にしがみついているのかも知れない。いずれにしろ私に出来ることは何もなかった。いままでも、これからも…
私は、数千年ぶりに湧きあがる、自分の感情を持て余していた。おそらくこれは愛と呼ぶべきモノなのだろう。だとすると、それはなんと狂気に近いモノであるか。
私はことを終えると早々に身支度を整える男の背中をじっと見つめた。
「聞仲…私は…」
思いあまって吐き出された私の言葉を遮って彼が口を開いた。
「殷は滅びない、この私がいる限り」
私は、拒絶された。

禁城、太師府。
微かな麝香の匂いが私の鼻をついた。わずかではあるが間違いようのないあの女ギツネの匂い。
「何の用だ」
私の声に、柱の影から妲己が顔をのぞかせた。
「あらん、やっぱり気付いていたのね」
何がおかしいのか、妲己はクスクスと笑った。
「封神されたくなければ、今すぐ失せろ」
本来ならば、いますぐここで何度封神しても飽き足らぬ女だ。だが、紂王様の状態を考えると、私はこの女を消してしまうわけにはいかなかった。
「なんて冷たい言葉かしら。せっかく妾が愛しの聞仲ちゃんをたずねてきたっていうのに」
妲己は腰を揺らしながら私に近付いてきた。しかし、ある一定の距離まで達すると警戒するようにそれ以上は近付こうとはしなかった。お互いの攻撃がギリギリかわせる距離だ。
妲己は私から距離を保ったまま、様子を伺うようゆっくりと周囲を回る。
妲己は空中をあおぎ犬のようにクンクンと鼻孔をひくつかせると、眉をしかめた。
「…の、におい」
小さく呟くと、妲己は憎々しげに私を睨んだ。その瞳には冷たい憎悪の光が宿っていた。
「聞仲ちゃんは、女が嫌いなのかしら」
「貴様のような、女ギツネはな」
妲己は私を挑発しようとしたが、私は相手にする気はなかった。
「おバカな、聞仲ちゃん。女はみんな妾と同じ。妾のように欲深くて、嫉妬深い生きものなのよ」
そこで、妲己はひと息つくと、言葉を続けた。
「貴方の大切な、朱氏ちゃんもね」
「なぜ貴様が彼女を」
―知っている。
思わぬところを突かれ興奮し、声を荒げた私に、妲己は嬉し気に目を輝かせた。
私にとって、妲己などに彼女との思い出に踏み込まれることは、堪え難い冒涜だった。
「あら…妾は、聞仲ちゃんのことならなんでも知っているわ。だって妾は、聞仲ちゃん、あなたを愛しているんですもの。
ついでに言うならね、あなたは信じないでしょうけど、妾は紂王様のことも心から愛しているの。もちろん、太公望ちゃんもね。
妾は、この世に生きているすべてのモノを愛しているわ。妾は、この世界が愛おしくてたまらないわ」
「…貴様は、狂っている」
私の低く怒りをふくんだ言葉に、妲己は侮蔑の眼差しをむけた。
「妾よりも、聞仲ちゃん…あなたの方が余程イカれているわ。自分で気付いていないのかしら、あなたがどれほど非道い男なのか。純粋で残酷な男。でも、妾は、イカれた男が大好き」
妲己は、腰をかがめ少し首をかしげると下から私の顔を覗き込んだ。不思議にその顔は、童女のように無邪気な顔で、一瞬たりとは言え、私は幻惑された。
「好きなモノは、呪うか、殺すか、争うかしなければならないものよ。妾が、殷を滅ぼそうとしているのも、その為だし。あなたがこの年老いた国にしがみついているのも、その為でしょう」
息苦しくなる程濃厚な麝香の香りが辺りにたちこめる。視界が歪み、目眩がした。これは、妲己の術のせいなのか。体が痺れたように指先一つ動かすことが出来なくなった。
「貴様…」
私は唯一自由になる唇をふるわせて喘いだ。
「フフフ…あわれな聞仲ちゃん…」
視界いっぱいに妲己が近付いた。妲己は痛みを堪えるかのような私に薄く笑うと、私の唇に軽くくちづけ、踵をかえした。

私は酒に酔わない。いつも飲めば飲む程頭は冷えていった。だが、今夜は飲まずにはいられなかった。昼間の妲己との一件が私の心に深い影を落としていた。私はむっつりとおし黙ったまま杯を重ねた。
常にはない私の態度をいぶかしんで男が声をかけてきた。
「何かあったのですか?」
「貴様には関係ないことだ」
私は、素っ気無く言い捨てた。
「聞仲…」
「黙れ!貴様らすべての仙道どもが、よってたかって殷を食い荒らしにしている」
尚も私に話し掛けようとした男に向かって、私は怒鳴り付けた。男の肩がびくりと震えた。重苦しい沈黙がはりつめた。そうだ、これは八つ当たりでしかない。私は自らの内にどす黒く渦巻く憤懣やる方ない思いを、男にぶつけるしか成す術を知らなかった。そんな私に、男は落ち着いた声で尋ねた。
「私が憎いですか?」
「ああ、憎い」
「殺したい程?」
「そうだな」
「かまいませんよ、私は、貴方になら…」
その言葉に私はカッと頭に血がのぼった。私には、男が何を思ってそんなことを言うのか、さっぱり理解できなかった。戸惑いは容易に怒りへと変換された。男のひどく優しい顔は、怒りを増長させた。だが、私が苛立てば苛立つ程男は嬉しそうであった。

私の傍らで男はまどろんでいる、私はゆっくり榻の上に身を起こした。男は目をさまさなかった。
私は暗がりのなかで、窓から差し込むわずかな光を半面に受けた男の顔を覗き込んだ。男との快感が、まだわずかに体内に残っていた。やがてそれは苛立たしい悔恨となった。
夜の静けさと裏腹に、私の心はひどくざわついていた。
『殷を…この子を…たのむ…よ…』
そうだ、
「殷の為に」
『…どこにも行かないでくれ聞仲…行くな…行くな…』
『腐った国を守るよりもっと大切なモノがあるって分かんねぇのか』
『殷を…殷殷殷殷殷殷殷殷殷殷いいいいいいいいい…』
『もう遅い、紂王はすでに民の信望を失っておる』
「遅くはない」
男の存在は殷の為にはならない。
「殷の為に」
私は聞く、心の内なる狂おしい囁きを。生け贄を捧げよと…この年老いた国は生け贄を求めている。
男の白い髪に、白い体、それは、まるで真っ白な羊だ。美しい生け贄。神への供物。
『かまいませんよ、私は、貴方になら…』
そう…
私は、そばに脱ぎ捨ててある上着を探ると懐刀を取り出した。鞘を払うと、刀身が冷たく月光をはじいた。私はしばらく握りしめた刀を見つめていた。刀身に映る私の顔は、醜く幽鬼のようだった。
私は刀を握る手に、ぐっと力を込めると、呼吸を静かに整えた。ゆっくりと気をしずめ、目蓋を開き、男を見た。決めた以上、私に迷いはなかった。むしろ強い力が私を押すように思えた。
私は、静かに眠る男の心臓めがけて、刀を一息のもとに突き刺した。赤い赤い鮮血がわき上がり、その白い体をみるみる赤く染めあげていった。寝台から溢れ流れた血が、地面に吸い込まれた。
時間の感覚がまるでなかった。このまま二人、永遠に、この時、この場所に閉じ込められてしまう気がした。
すると突然、男は目を開き、私に向かってにっこりと微笑んだ。暗く深い漆黒の瞳が私を呑み込んだ。腕が私にゆっくりとのばされた。
私は、恐慌にかられて、手にしていた刀をふりかざすと何度も男の体をめったざしにした。早く消えてくれと念じながら。
やがて、動かなくなった男の姿を、私はあらためて確認した。すると、そこに横たわっているのは、男ではなく、血にまみれ、冷たくなった女の骸…
「…朱…氏…」
頭の中が真っ白になり、私は何も考えられなくなる。
私は女の亡骸を抱き締めた。きゃらきゃらと狂笑があたりに響いた。それは、あの女ぎつねのモノか、道化のモノか。また、あるいは…
崩れていく世界の中、私は女の亡骸をかたく抱き締めたまま、クルクルと回りながら堕ちていく。
どこまでも、堕ちる。
誰でもいい…誰か…私を……てくれ…

何かから逃れるように、何かに縋るようにのばされた男の腕をとると、私は、両手で包み込んだ。熱くじっとりと汗ばんだ手が、私の手を強く握りかえした。
「…朱…氏…」
男の口から紡ぎだされる言葉。
「朱氏と呼ばれて、ハイと答えればいいのですか…」
私は、眠る男にむけて話しかけた。男は何も答えない。ただうなされているだけだった。
「記憶の中の女は、歳をとらない。思い出はきれい、月日を重ねるごとに美しく」
私は歌うように言葉を重ねる。聞いている者は誰もいない。
「そんな、貴方が好きなのだから…だから、初めから、私に勝ち目など、全然ありません」
闇はその領域を明け渡し、東の空に浮かんだ月は白くぼやけて姿を消していく。
私も消えなければならない。
やがて、夜明けだ。