「…わかりませんね…あなたがそこまで殷にこだわるわけが…」

彼はいつも空気のように、ただそこに存在していた。
「若かった頃の私にはライバルがいた。朱氏…私と彼女に力は互角だった」
仙界の、異端者、無頼者、様々な悪いうわさで彩られている彼であるが、どれも彼の本質をさしてはいなかった。
「朱氏はさほど美しくはないし、年齢も私より4つも上だった」
彼はうつろい流れる時の流れで、時にはげしく、時に冷たく振る舞いはしたが、彼自身は、すでにからっぽで、何の意味も持たないのだ。
「だが、明るく生命力に溢れたしなやかさが、彼女を魅力的に見せていた」
私は、自分が300年も昔の話を、彼にむかって自然に話していることにたいし戸惑いを覚えた。
「私には新しい目標ができた。仙人界で力をつけ、殷のために役だてるという」
今まで誰にも話したことのない想い出なのに、不思議と、彼に話すことに抵抗はなかった。心の奥底に秘めた、美しく、けして色褪せることのない記憶、誰にも汚すことの出来ない。
そして…
冷たくなる彼女の指先。消えてゆく瞳の光。
『…になら、この子を…この子は次の殷の王…』
今でも、昨日のことのように、彼女の言葉が、鮮やかに蘇る。
『殷を…この子を…たのむ…よ…』
彼女の願い。私の…想い。
「いい王もいれば悪い王もいた。だができの善し悪しに関わらず、皆私を恐れ、慕ってくれた…」
「そして皆あなたより先に死んでいったのですね」
彼の言葉に、私は我にかえった。急に、いたたまれない気恥ずかしさに見舞われた。
「…下らん、話をした」
私は、自分のつまらない感傷を振払うように、彼に背を向けると、執務に戻ろうとした。
「いいえ…確かにあなたは、殷の親ですよ」
彼はなにげに、私の背中にそんな言葉を投げかけた。
「・・・・・」
彼がやさしく思いやりのある人間だと気づいたのは、そんな時だった。
私は彼の顔を見ようと振り返った。が、彼はすでにそこにはいなかった。

夕暮れから降り始めた雨は、夜半を過ぎても静かに降り続いていた。優しく静かにふりそそぐ雨。
私は雨に混じってかすかな気配を感じた。それが誰であるのか、私には分かっていた。不思議な予感がした。
私は書き物の手を休めると、机を立って窓に向かった。大きな芭蕉の葉を雨傘代わりにして、彼は窓の外に立っていた。葉から滴り落ちる雨の雫が彼の服を濡らした。私が窓を開くと、彼はするりと部屋の中に滑り込んだ。
「濡れているな」
「少しですよ」
彼はそれが当然のごとく、私に身体を預けてきた。私も、何の違和感もなく、彼を腕の中に抱き締めた。
知らず知らずに彼は自分を開いた。私は彼を抱いてしまうことに恐怖を感じた。それは荒廃したどうにもならない世界へと飛び去ってしまう事でもあった。分裂症。美しい魂の分裂。きっと誰かが、何かが、彼を永遠に滅ぼす事になるだろう。
私はそれが自分ではない事を願った。
「別に…」
私は言った。
「無理をして私に抱かれる必要はない」
彼は顔をあげると、私をまっすぐ見つめた。
「私が嫌なんです。私は、今、あなたに、抱かれたい」
彼は、一言一句、句切るように発音した。
「全く…なんだって…そう、朴念仁なんですか…まあ、あなたのそういう所は嫌いではありませんが」
彼は、なかば呆れた様子でぼそぼそと呟いた。
確かに、私は、朴念仁に違いなかった。私は、申公豹を寝台に引き倒すと、上に乗って、荒々しく彼の身体をまさぐった。クスクスと彼の含み笑いが耳に響いてきた。ふいに、私は彼の顔を覗き込んだ。
「名前は?」
私は聞いた。
「???申公豹。知っているでしょう」
「それは、道士名だろう。そうではなく人間であった頃の名前だ」
「知るとどうかなるのですか」
「ただ、知りたいだけだ」
「変な人ですね」
彼は笑うと、私の耳もとに口を近付けて、その名を囁いた。
「…きょ…ゆ…」
私は、彼の名前を呼んだ。彼はくすぐったそうな表情をして首を竦めた。

彼は気紛れに、私の居室を訪れた。時々、ひどくナーバスになっていることがあって、そんなときは、ずっと不機嫌そうに寝台で身体を丸めてじっとしていた。
仙人界最強と評される彼だったが、彼は誰よりも無力だったのかも知れなかった。人には過ぎた強大な力。彼には、歴史の流れをただ見ていることしか許されていなかった。
私が寝台のすみに腰掛けると、彼は私をギロリと睨んだ。
私は、彼の頬に手を当て、その入れ墨を指でなぞった。それは痛々しく、私を沈痛な気持ちにさせた。それでいて、入れ墨は彼の美しさをなんら損ねることはなく、むしろ、彼の美しさを際立たせていた。
「醜いでしょう」
「いや、むしろきれいだ」
私にはまるで似つかわしくない、言葉が、するりと唇から流れ出た。言った後で私は、自らの言葉に少なからず動揺した。彼は驚いたように目を見張り、私を凝視したが、
「ありがとうございます」
フッと、柔らかく笑った。
私達は抱き合った。申公豹は声を殺して泣いていた。涙がこぼれ落ちていくのが分かった。私の肩に垂れた白髪は、死者の旗のようだった。私達は、悲哀に満ちた性愛を静かに楽しんだ。

翌朝、目をさますと、申公豹はすでに、起きてお茶を入れていた。緑茶の甘い香りが辺りにただよっていた。彼は、やすらいで幸せそうだった。歌を歌っていた。私は寝台の中にいて、彼の喜びを共に味わった。やがて、彼がきて私を揺すぶった。 
「さあ、起きて下さい。さっさと顔を洗って。朝食が待っています」
朝食をすますと、私達は、その日の午前中、渭水のほとりに出かけた。
沖の方には五、六隻小舟が浮かんでいて、漁師が魚を採っていた。水鳥達が上空を騒々しく飛び回っていた。
全てを安らかに包む大気のもとを、私たちはゆっくり歩いて回り、それから草の上に寝ころんだ。はなす事はあまりなかった。一緒にいられるだけで満足だった。
なんとなくこの方が、躯を結ぶよりよかった。ゆるやかに流れ出て溶け合うものがあった。
「何もかも、捨てて、どこか、遠くに逃げるか」
私は、彼に聞かせるでもなく、ぼんやりとと目の前の渭水の流れを眺めながら、呟いた。ゆっくりと流れる川の水面は、陽光をはじいて、あたりは明るい光に包まれていた。
彼はしばらく窺うような目で私を見ていたが、
「そんなことは、無理です」
苦笑しながら答えた。
「あなたは、殷を捨てることは出来ないし。殷を捨てたあなたは、すでにあなたではなくなってしまいますから」
「・・・・・」
それは、確かに彼の言う通りで私には何の反論も出来なかった。
この時の私の言葉に、うそ偽りはなかった。私は、心のそこから、彼と一緒に遠くに逃げ去ってしまいたいと望んだ。だが、同時に私は自分が殷の太師であるべきことも強く感じた。結局、私は、わが子を、殷を見捨てることは出来ないのだ。彼は、それを見すかしていた。
「戯言、だな…」
「いいえ」
思いのほか、明るい声がかえった。
それから、彼は、彼の霊獣に乗って去っていった。遠く小さくなる彼を私は見送った。私には、太師府に戻れば、まだまだやらねばならぬ仕事が山済みされていた。

そして、彼はいなくなった。それっきり、彼を朝歌で見かけることはなくなった。
あのとき、言葉のはしはし、動きのひとつひとつに、彼の不安はあらわれていた。だというのに私は、全く感じとろうとしなかった。だらしがなさすぎた。最後に見た彼、彼は確かに笑っていた。なのに今は、彼の顔さえ思い出せない。私は起き上がると酒を浴びた。
はるか摘星楼の方から、毎夜繰り広げられる宴の淫靡で耳障りな楽の音が風に乗って響いてきた。それはいつまでも止むことはなかった。ねっとりと体にまとわりつく生暖かい夜の闇。
私は、酒器を床に叩き付けると、外に向かって大声で叫んだ。獣のような吠え声が、幾重にもこだまして、闇に吸い込まれていく。私は、膝から床に崩れ落ちた。
夜は次第に濃くなっていく。私にはできる事が何もなかった。