山には鬼がすんでいる。子供をさらっては、頭からばりばりと喰らってしまう鬼が…

草原の冬は、長く厳しい。見渡す限り一面、灰色の雪でおおわれた閉ざされた世界。
狭いパオの中、男達は、冬の間にこまごました道具の修理に余念がない。女達は、夏に刈った羊の毛を紡ぎ、布をおる。子供達は、家に閉じ込められて暇を持て余している。天幕一枚はさんで外では吹雪が吹きすさんでいるが、パオの中は、暖かく安心だった。チロリチロリと赤い炎が燃える囲炉裏の前に婆様は座って、時おり枯れ枝を折っては火にくべる。退屈した子供達は、婆様の周りに群がっては、話をせがむ。
「そうじゃなぁ…」
婆様は、語りはじめる、長い冬の短いおとぎ話。
山には鬼がすんでいる。子供をさらっては、頭からばりばりと喰らってしまう鬼が…

木立の隙間から見える空が、灰鼠色に近くなる。もうすぐ、日暮れだ。あたりはどんどん、薄暗くなっている。
一体どれくらい歩き回っているだろう。歩けば歩く程森の奥深くへと迷いこんでいく気がする。朝から、水一滴も飲んでいないため、喉はからからで、体は鉛のように重い。それでも、望は不安を振払うかのように歩き続けた。
「どうして…こんな…」
はく息が重い。望はあふれ出しそうな不安を押さえ、なるべく冷静に自分の現状を思い浮かべる。
羊を探していた。
兄の呂尚について、毎朝、羊達の放牧に出かけるのが近ごろの望の日課だった。まわりの大人達や、兄は望の遊びとしか思っていなかったが、本人はいたって真剣、羊を追いながら、まるで一人前の大人のような気持ちであった。
だから、羊が一匹足りないと気づいた時、望はひどくうろたえた。どうしても羊を探さないといけないと思った。そして、望はやみくもに探しはじめた。村からどんどん離れていくのも気がつかないままに。気がついた時には、いままで見たこともない場所に着いていた。

こだちの隙間をぬって白い影がちらりとよぎった。
「羊?」
羊であるはずはなかったが、なぜかそれを羊だと思った。なにより、暗くなっていく森の中で、それでも動くものを見つけた事が嬉しかった。望は、影のみえた方向に歩き始めた。白い影は、望を誘うように、木々の間を見えかくれする。歩きおくれた望が、見失ったと思うたびに、不思議とその白い影はちらりと目の前をよこぎる。それは、望をより森の奥深くへと誘い込むようでもあった。痛む足を引きずり必死で、追いかける望。ふいに、足下の地面が消え、そのまま、崖下に転がり落ちた。
「いたたたた…」
頭を押さえると、今、自分が落ちてきたとこを見上げた。思ったよりも、崖は高く、はるか上のほうに、木々が見える。高さ、十メートル程の崖から転がり落ちた割には、怪我ひとつしていない。おもわず、望は、自分の運のよさを感心した。
ついで、あらためて望は、前方を見渡す。どうやら、切り立った崖の出っ張りにあるらしいその岩場からは、夕闇に薄く光る星星が見える。かなり広い広場には所々、喬木が生えている。そして、山の端にこじんまりした庵が一建。いきなり、近くの喬木の影から白いものが飛び出す。白い大きなトラだ。その大きなトラのそばには、人がひとり佇んでいた。

望は、その人物に、ひどい違和感をおぼえた。それは、本能的な恐怖に近い。人の形をした、人ではあらざるもの。そう、それは、まるで、婆様が話してくれた物語のなかの…
白い髪に、黒い瞳。色褪せた墨染めの道服をまとった姿は、色と言うものをまるでもたない。白い伝説の鬼だ。子供を頭からばりばりと喰らってしまう白い鬼。惚けたように、鬼を凝視していると、鬼が口を開いた。
「こんなところに、人間の子供がまぎれこむとはね」
「…は?」
鬼が、…何か話しかけている。
「あなたの、名は?」
ようやく言っている事が理解できた。
「口がきけないのですか?」
「望。羌族の呂望」
慌てて答えた。機嫌を損ねて食べられでもしたら大変だ。
「その…羊を探していたら…」
「ふ〜ん。羌族ですか…」
興味があるのか、ないのか。なんともわけの分からない反応をした。
「容易く入り込まないように、結界を張ってあったはずですけど」
鬼は、望の顔をしげしげと眺めた。
「本来なら、子供は、ここにいるクロの餌にでもしてしまうんですがね」
鬼は、傍らに控えている大きな白トラを見やった。望は、驚愕に目を見開くと白トラを見つめた。すると白トラは、巨大な口を大きく開き、
「がおおおお〜」
と、一声吼えた。
「うわあぁぁ〜」
望は、おもわず尻餅をつく。
「クロ」
鬼が、たしなめるように、その名を呼んだが、白トラは悪びれたふうもなく、あくびをすると顔をなめはじめた。
「夜があけたら、クロにあなたを村の近くまで送らせましょう」
素っ気なく言い放つと、鬼は庵の中へと消えていった。望は白トラと二人後に取り残される。望は、恐る恐る白トラを窺う。しかし、白トラは、まるで望の事など眼中にないと言った風情である。
「家に、かえりたい」
心細さに小さく呟いた。そんな、望の頬を、白トラがぺろりとなめる。
「うわぁ!」
望が、目を白黒させる。
「たたた…食べても、美味しくないです」
望が、悲鳴をあげると、白トラは、そんな態度は、心外だといわんばかりに立ち去ってしまった。今度こそ、一人きり取り残された望は、ひざを抱え、頭を丸め込んだ。
「望」
「????」
気配を感じて、顔をあげると、目の前に桃をくわえた白トラが座っていた。望に、食べろというように、桃を突き出す。戸惑いながらも、望は桃を受け取った。思いのほか、優しいトラらしい。ほんのひとくちかじると、桃の新鮮で甘い香りが口一杯に広がった。そのひとくちで、さっきまであった警戒心は、吹っ飛んでしまい、お腹のすいていた望は、ガツガツと桃にかぶりつくと、あっという間に平らげてしまった。
その様子を、白トラが満足そうに眺めている。
「ありがとう」
少し、照れながら望が、お礼をいった。
その夜は、白トラのあたたかな毛皮にくるまれて眠った。

夜明け前、白トラがのっそりと起き上がるのに伴い、望も目をさました。
白トラは、断崖に佇む鬼のもとを目ざし歩いてゆく。望も白トラの後に従った。山の稜線が、うっすらと白く染まってゆく様子を、鬼は静かに眺めていた。望の存在などまるで気にも止めていない様子で。望は、その横顔をしばらく見つめていたが、今度は、鬼と同じように、明けてゆく空を眺めてみた。静かな、心穏やかな時間。望は不思議な感動を味わった。
「望とは、はるか遠くを見ることを意味します。千里の彼方を、そして未来を見る力。見きわめる力。だから、私は、あなたを殺さないでしょう」
鬼は、遠くを眺めながら静かに述べた。しかし、望には、それがよく理解できなかった。望が、言葉を返そうとすると、鬼はそれを遮るように、望を抱き上げて、白トラの背中に乗せた。
「さようなら、呂望。私のことは、誰にも言ってはいけませんよ。もし、約束をやぶれば、あなたに災いが訪れるでしょう」
やさしく、平然とした口調で不吉な事を言う鬼に向かって、望は、黙ったまま首を大きく振ってみせた。
「クロ」
その声に呼応するように、白トラがふわりと宙に舞い上がった。そのまま一気に上空へ駆け上がる。強い圧迫感に望はぎゅと目を閉じ、白トラの毛を強く握りしめた。
「目をあけてみなよ」
「?」
頭の中に、誰かの声が響いた。うすく目を開くと、そこに見えたのは、眼下に広がる草原の海。山々の嶺からあがる朝日を浴びて、暗い深緑色の眠っているような草原は、西の方から輝くような若草色にかわっていく。風がふくと草は波のように色を変えて流れる。
「すごい」
風に吹かれながら、望は、思わず感嘆の声をあげた。なんて美しいのだろう。
はるか下に小さく望の村が見えた。羊達の白い群れが、草原の海原に漂う。白トラは静かに、村から少し離れた場所に降りたった。
「お〜い」
望は、羊の群れに向かって声のあらん限り叫んだ。羊の群れの中で人陰が動く。
「望!」
兄が、草原を走ってくるのが見えた。
ふと、後ろを振り返ると、そこには、もう白トラの影も形もなかった。

夢をみた。
村が燃えている。黒く沸き立つ煙に、赤く燃え上がる炎。
足下に累々と積み重なる、村人達の屍。
父に、兄、そして妹も…
そして、その中に立ち尽くす、白い鬼。鬼は、ゆっくりと振り返る。
笑っている?
「・・・・・」
叫ぼうと口を開いても、言葉は出ない。

「…」
誰かが、名を呼んでいる。
「…ぼう…ぼ…う…」
「望!」
強く、はっきりと自分を呼ぶ声に望は夢から覚醒した。目覚めとともにたちまち夢の内容は曖昧になってよく思い出せなくなる。
体中ぐっしょりと冷たい汗をかいている。空気を求めて口で大きく息をする。遊婆が心配げに、望の顔を覗き込んでいた。望は、遊婆の顔をみとめると手をのばし夢中でしがみついた。
「大丈夫、大丈夫じゃけん、なんか恐い夢でもみたんかいな」
遊婆は歌うような声で望をあやす。神隠しにあって以来、ことのほか望は不安定で夜眠ることを異常に怖がる。
眠ると悪夢を見るのだ。どんな夢だったのかは覚えていない。ただ恐ろしい思いだけが残った。
「何が、恐いん?婆に話してみ…」
―私のことは、誰にも言ってはいけませんよ。
望は、大きくかぶりを振った。
「言いとぉないんか?」
またも、望は、大きくかぶりを振った。
「言いとぉないんなら、無理して言わんでえぇ…」
遊婆は、望の頭を優しく撫でる。違う、そうではない。望は泣きそうになる。
「鬼が…」
望が、小さく呟く。
「鬼が、どしたんじゃ?」
「鬼が…鬼…」
一度、溢れ出した言葉は、とどまるところをしらない。
望は興奮して、何度もどもりながらも、山であったこと、見たものを話した。
「…白い、きれいな鬼だった」
望の話を聞き終わると、遊婆はひどく驚いたような顔をした。
「それは、***様じゃな…」
「***様?」
望が遊婆の口にした名前をくり返した。しかし、遊婆はまるで望の言葉など聞こえなかったかのようにぼんやりと遠くを見つめている。
遊姜の家系は、呂一族の中でも、代々、巫女の役割を果たしてきた家系に当たる。神々の声を聞きその吉凶を占う、神の娘達。しかし、遊姜は自らも含め、母、祖母、その前の代、ここ何十年に渡って、本当に神を降ろした巫女の話を聞いた事がなかった。なぜなら彼らの神々は、商王朝によって奪われてしまったからだ。商王朝は、自らにまつろわぬ神を許さない。羌族の信仰の対象は岳であり、岳の中でも大嶽と呼ばれるもっとも尊貴な山は、中国中央にそびえる嵩山であった。だが、羌族にとって哀しい事に、その聖なる山は商王朝によって奪われ、羌族の人々は聖地嵩山に近づくことでさえままならない。
「羌族…奪われた、神…嵩山…」
遊婆は望に聞かせるでもなく、ぶつぶつと呟き続けている。
望を、山から返してくれたという事は、***様が、望の守護神としてついてくれた事を意味するのだろう。その事が吉に出るにしろ凶に出るにしろ、遊姜は望の未来に強い不安を抱かずにはいられなかった。羌族の守護神である、***様は、生き物を慈しみ育む善なる反面、全てを破壊する破壊神としての側面も持ち合わせている。それに、何十年も姿をあらわさなかった***様が今頃になって現れたのはなぜなのか。
遊婆は厳しい表情をすると、
「望よ。***様を見た事を、他の人にゆったらいけんよ。…不幸が起こるから」
鬼と同じ言葉を言った。
望は、鬼の事を話してしまった事を子供心に強く後悔した。やはり、鬼の事は誰にも話してはいけなかったのだ。望はいままで、遊婆のこんなに恐ろしい顔を見た事がなかった。おびえたように遊婆を見つめると、遊婆は柔らかく笑ってみせた。
「ごめんなぁ、怖がらせてしもうたなぁ…けど、なんも恐いことないからなぁ。望には、強い神様がついてくれとんじゃけん」
遊婆は、望の手をとると、手のひらに指で左巻きの渦と、右巻の渦がつながった形を描いた。望は、自分の手のひらをジッと眺めた。
「さあ、もう眠り。今度は悪い夢をみんように、婆が、おまじないしたから」
遊婆は、望の手を軽く握ると、やさしく語りかける。それは、いつもとなんらかわらぬ遊婆の姿で、望は、軽く安堵のため息をつくと、目を閉じた。
不思議に、それから悪夢を見なくなった。
そして、神隠しのこともいつの間にか忘れてしまった。

夏の終わり、遊婆がなくなった。
村全体が見渡せる丘の上の岩に腰掛けたまま、まるで眠るかのように亡くなっていた。草原の風が亡骸となった遊姜の顔を撫でて吹き抜けていく、その姿は村を見守っているかのようであった。享年81歳。呂一族の偉大な巫女の死を村人達は悲しんだ。
乾いた草原を、山にむかって葬儀の列が行く。柩を担いだ四人の頑強な男達のあとに村人達が続く。村人の持つ青、赤、黄、白、黒の五色の旗が、パタパタと風にはためき、鈴の音が、からからとどこまでも風に乗って響いていく。哀しいながらも、どことなく明るい風景だった。列の最後部を望は、兄に手をひかれてとぼとぼと歩いた。望の母は、望の妹の由を生んですぐに亡くなってしまった。そのため、望には母の記憶があまりない。自然、望はおばあちゃん子に育った。悲しいことがあった時も嬉しいことがあった時も、いつでも遊婆にまとわりついていた気がする。それは、望にとってはじめての親しい人の死の体験であった。
山頂につくと、柩は降ろされまわりに薪が積み重ねられた。望の父が、薪に火をつける。薪のはぜる音が聞こえ、やがて炎が上がりはじめた。白い煙が細い線をえがいて、ゆっくりと青い空に向かってのぼっていく。
「望、あの煙にのって、婆様は天にのぼっていくんだよ」
かたわらに立った兄がそう教えてくれた。
「天にのぼるの?」
「そう、天から望のことを見守ってくれるよ」
望は、白い煙をぼんやりと眺めていた。そして、なぜか、望は、あの鬼が自分の換わりに、大好きな遊婆を連れていってしまったんだと思った。

太陽は、まだ、中天よりはるか東の空にただよっている。しかし、その日ざしはすでに強く。地面からは、肌にまとわりつく暑い熱気がむっと立ち上がってきている。それは、今日一日の焼けるような暑さを予感させた。
「望、暑いなぁ…こんな日は川で水浴びがしたいよなぁ」
空を見上げながら、不満げに呟く幼馴染みの牙の顔を望は苦笑しながらながめた。遊牧の仕事ももう一人前にこなせる、とは言うものの、望も牙もまだ12歳の子供でしかない、まだまだ遊びたい盛りだった。羊達を見張っているよりは、川で水遊びをしたり、魚を釣ったりしている方が、がぜん楽しい。
「羊をほりだして川にいくわけにはいかないよ」
「それだもんなぁ〜あ〜あ〜この堅物は〜」
ふざけてとびかかってくる牙を、かわし、望は走り出した。
「競〜争」
「あっ、ばか、待てよ、卑怯もん!」
とびかかった拍子に体勢を崩した牙はあわてて後をおいかける。
「おそいんだよ。ば〜か」
笑いながら、二人は丘を目ざしてかけていく。
と…青草をなぎたおし、とつぜん一陣の強い風が吹き抜けていった。
吹き上がる砂塵に、おもわず顔をふせる望の耳もとを風は吹き抜ける。
「望…」
「ゆう婆?」
ふいに、名前を呼ばれたような気がして、望は顔をあげると四方を見渡した。
視界のはしに、白いものが映った。
「?!」
既視感が、望をおそう。
南の丘に、林のように立ち並ぶ、白い軍旗。
そうだ私は、この光景を知っている。そして、この後に続く光景も。
「ぎゃああああああああ」
鋭い悲鳴に現実に引き戻される。ぼんやりとしていたのは、ほんの一瞬のことだったらしい。
「牙、逃げろ」
直ぐに、望は我を取り戻すと、村に向かって駆け出した。

村は、望が辿り着いた時にはすでに、異変を察知した人々で大きくざわめいていた。大声でわめきながら、自分の家のほうへ向かう。パオの前には、父が呆然と佇んでいた。
「父上、商、商の軍が!」
望が、咳き込みながら告げる。
「大白旗だ…商王自らが率いてきた軍だ」
絶望のうめきが父の口から漏れた。

遊牧をなりわいとし、草原を羊とともに移動する羌族。
彼らの思想の根底を流れるものは、平等である。その共同体の中で、全ての富みと貧しさは村人達に均等に配分される。彼らには、他民族を襲ってその富みを略奪し自らを肥え太らそうという考えもなく、武器は、自衛に於いてのみ使用される。それゆえに、彼らの戦闘能力は低い。又、彼らは、山岳民族とは違い、草原と言う平地を生活の場としていたため、格好の狩りの標的となった。もとより商の人々は、異民族を人間とみなしていない。女、子供の容赦もなかった。捕まえた羌族は商の都市朝歌連れていかれ、亡くなった王の殉死者として、地中ふかくに生き埋めにされた。あるいは、殺されないまでも、奴隷として、商の灌漑事業や城壁造りといった重労働に死ぬまで酷使させられた。

商の軍に南と東の丘を囲まれ、今や、村は逃げまどう人々で混乱の極みに達していた。商軍は、狩りの獲物を生け捕りにするために、なるべくゆるやかに、その包囲網を縮める作戦をとっていた。
そんな中、羌の男達は、各々武器を手にして集まってきた。統領である望の父が、男達に手短な指示を与えていた。族人の逃走を助けるために父はふみとどまろうとしている。ほかの男達も肉親のために楯になろうとしている。その悲壮さが望の胸をはげしく打った。
男達の中には、望の見知った顔が幾人もいた。望の家をよく訪れては、父と酒をかわし、歌を歌っていた叔父。変わり者で独身者の叔父は、ことのほか望を可愛がり、いつだったか、宴席にはべっている望に酒を飲ませ、望の父からこっぴどく怒鳴られたこともあった。また、村一番の馬の使い手で望に馬術を教えてくれた男。彼は、村中の子供達の憧れの的だった。そして、兄の姿も。兄は、望を見つけると不思議な笑みを浮かべた。死を覚悟したものが見せる透明な、笑顔。
「早く、逃げるんだ」
「嫌です。私も、戦います」
望は、必死な形相で兄に迫った。
その言葉に、一瞬困ったような表情を見せると、兄は、望の肩を強く掴み、言い聞かせるように言葉を吐き出した。
「望、生きろ。羌の…呂族の血を絶やしてはいけない」
強い眼光が、望をつらぬいた。父の方を見やると、その通りだと言わんばかりに軽くうなずくのが見えた。
「さあ、はやく」
兄は、北の林を指さした。泣き出しそうな望の背中を兄がそっと押した、おそらくもうニ度とあうことはかなわぬだろうと、その時、望は確信した。そんな思いを振り切るように走り出した。
林に近づいた時、一度だけ、後ろを振り返ろうとしたが、恐くて振り返る事は出来なかった。足をとめれば、そのまま崩れ落ちていきそうな自分を感じた。

林の中は、村びとの逃走を阻むために、商の兵士が放った火に包まれていた。わきたつ煙に、目は燻され、方向が分からない。火の粉を含んだ煙を吸って大きくむせこんだ。服はあちこち焼けこげ皮膚は炎症だらけ、羊の革で出来ていた靴はすでに役にたたず、素足で走っているのもかわらない。しかし、望には、痛みも恐怖もなかった。
―望、生きろ。羌の…呂族の血を絶やしてはいけない。
別れ際の、兄の言葉が、呪文のように頭の中をぐるぐると回っていた。
望は、ただ、生きようという意志のみを抱いて、ひたすら前に前に進んだ。

どれくらい、走っていただろうか…未だ、出口は見えない。炎の勢いは衰える事をしらない。突如、望の前方に立っていた木が倒れかかってきた。後ろを振り返る。逃げ道は、ない…
「死にたくない、こんなところで死ぬわけにはいかない」
望が悲痛な叫び声をあげた。
スローモーションのようにゆっくりと、燃えたつ木は倒れてくる。望はなすすべもなく、両手で顔をかばうと目をつぶった。
次の瞬間、目の前の大木が、すざまじい轟音と共に、バラバラに砕け散った。いきなり世界は、白一色になり、音というよりは、衝撃に近い力に大気は震える。熱い爆風が押し寄せる。状況が理解できずに、望は、細く目をあけると、必死に目をこらした。
炎の逆光を受けて、黒く浮かび上がる人影、始めはそれが誰であるのか分からなかった。混乱する頭で、記憶の糸をたぐる。記憶の奥底に眠る、忌わしきもの。それは、道化の服に身を包んだ、あの時の鬼。
炎に赤く染まった白い髪は、熱風にあおられて、まるで燃えているよう、大きな瞳は爛々と輝き。
―それを見たものには、災いが、ふりかかる。
望は意識を失った。

空が青い、青く晴れ渡った空を白い雲が、ゆっくり流れていく。
望は、重いまぶたを開くと、大地に仰向けの姿勢のまま、その景色を眺めていた。あのような惨劇があったにもかかわらず、空は、いつもとかわらず青い。青い空にとっては、地上で起こった羌族の人狩りなど、とるに足らないことなのかもしれない。そのことが、望をひどく悲しい気持ちにさせた。
痛む上半身をおこすと、額にかけられていた布がボトリと落ちた。見ると、体中のあちこちの火傷のあとにも、薬布が貼られ手当てがなされていた。
「気がつきましたか」
すぐ近くで、声がした。望は、声の方向に顔を向ける。
「・・・・・・・」
「ひさしぶりですね、呂望。私のことを覚えていますか?」
感情の読めない、どこまでも冷えきった声。
望の中で、過去の記憶が鮮やかに蘇った。ずっと忘れていた。しかし、全て忘れ去る事は出来なかった。山にすむ鬼、子供を喰らう鬼、白い伝説の鬼。そして…羌族の守護神、山霊。
バッと立ち上がると衝動的に、望は、***につかみかかった。
「なぜ、なぜ助けてくれなかったのですか。あなたには見えていたはずです。虐殺される村人が、聞こえていたはずです、村人達の悲鳴が…」
喉の奥から絞り出すように、声を発する。言い様のない怒りに声が震えた。
「羌族が何をしたと言うのですか。商に仇をなした事がありましたか。私たちは、ただ草原で静かに羊を飼って暮していただけです。なぜこんな目にあわねばならないのです。なぜこのように非道な事がまかりとおるのです」
激情のままに、望はまくしたてる。
「なぜ、あなたは、何もなさなかったのです。なぜ、なぜ…あなたを信奉する民を、見殺しに出来たのです。…あなたは、羌族の守護神なのでしょう…」
「…私は、神ではありませんよ」
冷たく、突き放すような声が、耳に響いた。望は、ひざから地面に崩れ落ちると、そのまま、慟哭した。それまで堪えていた涙が、溢れ出て止まらなくなった。一生分の涙を流しつくした気がした。そして、浮かんできたのは、ただ一つの思いだけだった。
望は、ゆっくりと立ち上がり、***と向かい合う。迷いも、恐れも、一点の曇りもない厳しいまなざし。
「私は、商王朝を、商王を倒す」
望は、***の目をまっすぐに見つめ、きっぱりと言い放った。
「はッ…ははは、あなたが、商王朝を倒す。商王を守護する上帝をも倒すと…」
***は、望を揶揄するように笑った。
「あなたが、なんと言おうと、私は、商を倒します」
「いいでしょう。あなたが、商王朝を倒すというのなら、私はそれを見届けましょう。あなたにそれが出来るのかどうか、愉しみにしています」
そこで、***は望から、顔をそらすと、言葉を述べた。
「呂望、あなたはおそらく仙界にあがる事になるでしょう、けれどそこで必要以上はけして学んではいけません…
もし、あなたが商王朝を倒すのであれば、呂族の望として、人間としてなしなさい。けしてそれを、仙人としてなしてはなりません。そうでなければ、意味がありません」
ふいに、望は、***の厳しさの裏にある、限り無い優しさを垣間見たような気がした。険しい山岳は容易に人々を受け付けないが、人々に生きる意志を与える。
「さあ、もう行きなさい。この川にそって北へ進めば、そこに羌族の村があります。しばらくは、そこに身を寄せるといいでしょう」
そう言って、***はその場から立ち去ろうとした。
「***様!」
望は、思わずその名を叫んだ。
***は、ゆっくりと振り返る、笑っている。それは思いのほか、優しい笑顔だった。
突然、望は何か言わなければならないと思った、しかし、何もうまい言葉を思い付かなかった。

さっきから、むっつりと黙り込んだまま、何か考え事をしている、背上の友に向かって、白トラはたまりかねたように話しかけた。
「ねェ、***は、なぜあの子を助けたの?」
「別に私が助けなくても、あの子は死にませんでしたよ。あの子が生きていくのは、むしろ歴史の必然ですから」
不機嫌きわまりない声がかえってくる。
「…だったら尚更のこと、あの子を助ける必要はなかったんじゃないの?
だって、***は、いつも言ってるじゃない。人間界のことに、首をつっこんではならない。人間界に影響をおよぼすような事をしてはならないって」
先ほどの狩りに興奮してなのか、今日のクロは、いつもにもまして饒舌で、なかなかひこうとはしない。
「確かに、それはあなたの言う通りです。だったら…私も知らず知らずの内に天数に組み込まれているのかもしれません。個個人の望みとは、全く関係なく存在するのが天数ですから」
「てんすう…?」
「そう、天数です」
「?…よくわからないや」
「私にも、よく分かりませんよ…」
長年に渡る付き合いから、これ以上問うても無駄だと悟った白トラは、口を閉ざした。***の言うことは、時々難しい。白トラは、たまに***の事が、まるで分からなくなる。しかし、白トラには、そんなことはどうでもいいことだった。大切なことは、ひとつ、自分と***が、友であると言うこと。たとえこの先どんなことが起ころうと、自分は、***についていく。それだけは、白トラの変えようのない真実だ。
それっきり、二人は黙り込んでしまったが、しばらくすると、唐突に***が白トラに問いかけた。
「クロ、あなたは神を信じますか」
「??ん〜、別にどうでもいいなぁ…だって、僕には、***がいるし」
「ははっ…、全く、あなたはたいした霊獣ですよ。本当、私には、すぎた霊獣です」
そのあまりに明解な答えに、***は、愉快そうに笑った。
「それでもね、人は神を必要としているのですよ。みんながみんな、あなたのように偉くはありませんから」
「***も?」
「そうですね…やはり、必要としていますよ。…ただ、それは、商族にとってだけの神、あるいは、羌族にとってだけの神であってはならないのです。もし…もしも、本当に神が存在するものであるならば、それは、民族をこえ、種族をこえ、万人に共通にあるべきです。そう、真理といってもいい」
「じゃあ、仙人はなんなの?神じゃないの?人間は、仙人に祈りを捧げているじゃない」
「あれは、ただの異形のモノです。(私も、含めてね)」
無意識に、***は、頬の斑紋をなぞっていた。***の、顔正面に彫り込まれた、生涯、消えることのない四つの入墨。
皮膚を鋭い針で刺しやぶり、そこから墨などを皮下に注入する入墨、すなわち、黥涅(げいでつ)は、五刑の中のひとつで、刑罰として課される。
五刑とは、生命刑としての死刑。身体刑として、性器を害する宮刑、足を切りとるゲツ、鼻を切りとるギ、入墨を加える黥、の五者である。
数百年前、***は、上帝の意向に逆らった逆賊として、黥涅をうけ、仙界を追放された。それでも、死刑にならなかったのは、彼の師のとりなしがあったからである。身体に刻み込まれた、罪人、異端者の烙印。
『これは、私の誇りです』
***は、天数の名のもとに、人間界に、操作を加えようとする、仙道達の傲慢さが許すことが出来なかった。たとえそれが、善意からきたモノであろうとだ。彼らは、仙道が人間界を支配することを、口では否定しながら、天数にかこつけて、自らの行為を正当化しようとする。いや、その胸の奥底に秘めた人間界を支配したいという欲望に気づきもしないのだ。
それに比べると、宮中で権勢をほしいままにし、悪逆非道をつくしている弧狸精ほど、仙道を侮蔑し、あざ笑っている者もいないように思える。彼女は、仙術を用い、人間界を支配し、やりたい放題の事をしているが、それでいて、彼女は、真から仙道を否定している。
***は、彼女の、行為そのものは、全く認める気はなかったが、心情的には、よく理解できた。

『それにしても、今回の人狩りは、私に対する、示威表明にほかならない。獣を穴からいぶし出すような手段を使って、この私を無理矢理、表舞台に引っぱりだすとは…』
弧狸精のことは、けして嫌いではなかったが、今回のように、目的のためには手段を選ばないようなやり方は、さすがに腹にすえかねた。
「山に隠ってるなんて、***ちゃんらしくないわよん。それとも、それはあの老いぼれ師匠の物まねかしらん」
狐狸精の哄笑が聞こえてくるようだ。
『やはり、私は、師のように全てをあるがままに受け入れて、いや…諦めて、か…生きていくことは出来ないようだ』
***は、自らの業の深さを思った。自然、酷薄な笑みが口元に浮かんだ。

全ての仙道は、一掃され、神話の時代に終止符が打たれる。
これから、もっともっと多くの血が大地に流れることになるだろう。
山を降り、野に放たれた災厄の鬼。
それを見たものには、災いが、ふりかかる。