二十四節季の1つ大寒、寒さが一年の中で最も厳しくなる、一月も末のこの時期。熊本市内に道場を構える、天然夢想流壬生屋道場では、毎年恒例の寒稽古が行われる。
戦時下で門下生も少なくなったとはいえ、千年の歴史を誇る由緒正しき天然夢想流宗家である、道場には50数名の門下生の名札がずらりとかかげられていた。
まだ夜も明けぬ早朝から、竹刀を打ち合う小気味良い音が響いてくる。
その日、精神修養の名のもとに、寒稽古に無理矢理かり出された虚弱体質な美少年は並み居る荒くれ者共の前にあえなく撃沈した。

「大丈夫ですか?」
心配よりは、むしろ呆れた感の口調が強い。
「俺は肉体労働よりも、頭脳派なの」
「…………………」
軽蔑の眼差し。
壬生屋は、ぐらぐらに煮立った熱湯で煮出したほうじ茶を小代焼きの湯飲みに入れると無造作に瀬戸口の前に出した。
「ありがとさん」
普段から格式張った礼儀作法には完全無視を決め込んでいる壬生屋だが、それでも、幼い頃から、体に染みついたものなのか1つ1つの動きに無駄がなく洗礼されている。
そのなにげない所作に、改めて感心しながら瀬戸口は、目の前に置かれた湯飲みを手に取った。
お茶と共に出されたサッカリン入りの落雁を1つつまんで口にほおばる。
人類優勢で食糧事情が以前に比べると格段に改善されたとはいえ、まだまだ、砂糖などは貴重品なのだ。未だ、市場に出回るのは合成食品が主であった。それでも、夾雑物を多量に含み、食べると体調がおかしくなるような粗悪品が少なくなった分ありがたい。
口に残る人工甘味料の甘ったるい後味をほうじ茶で流し込む。冷えた体に熱いお茶は何よりのご馳走だった。
手にした湯飲みを見るともなく眺める。
『小代焼き  か』
瀬戸口に骨董趣味が有るわけでもないが、何分、壬生屋家というのが、時価数百万といった初期伊万里が無造作に転がっているような、ふざけた家であるため、自然、目利きもどきの行為をしてしまう羽目になる。
あまりに普通に日常食器として、高価な骨董品、それこそ、美術品として博物館に鎮座していてもおかしくないような品物、が使われているのに呆れはてて、一度、壬生屋に問うてみたところ、
『古くさいだけの家ですから』
と、笑って答えていたので、なるほど、そんなものなのかと、庶民と旧家の価値観の違いをあらためて思い知らされた。
さて、小代焼きの事であるが。
九州は秀吉の朝鮮出兵の折に朝鮮の陶工達が連れてこられた所為か、薩摩焼き、伊万里焼き、唐津焼きなど、焼き物の盛んな土地柄でもある。むろん、肥後熊本にも、小代焼きと言う代表的な陶器が存在する。
小代焼の窯元は、文禄の役(1592)後、加藤清正公 に伴われて来た朝鮮半島の陶工達によって小岱山麓、現在の熊本県南関町宮尾の地で造られたのが、その始まりだといわれ、その後、寛永9年(1632)細川転封に際し、三斉公を慕い丹後より牝小路の祖、源七と、豊前より城家の祖、八左衛門が来山、窯業に専念し小岱焼の基礎を築いたとされる。
小代焼は約60年ぐらい廃絶していたが、その後再興され仕事が続けられている。
素朴で力強い土色の地に、少し青みがかった白い釉薬が独特の深みを加えているのが小代焼きの特徴。
飾りっけのない素っ気なさが壬生屋に似つかわしいような気がする。
かじかむ手に湯飲みを包み込むように握りしめて、暖をとる。
ここ数年の異常気象の所為か、九州熊本にしては、珍しい寒波が襲い、昨晩から降るでもなく止むでもなく鉛色の空からは雪がチラチラと舞い落ちていた。
こんな底冷えする気温のなかでも、相変わらず、壬生屋は綿の胴着と袴一枚で通しているのだから頭が下がる。
『寒いだろう』
と気遣った所で、
『気合いです』
と返されるのが落ちなので、瀬戸口も余計なことは言わない。
冬枯れした殺風景な庭に、うっすらと粉雪がつもっている所為で、より一層、その景色を物寂しくする。
そんな、墨絵のような静寂さの中、小さな池の側に植えられた庭木は、その鮮やかな色彩のため殊更目を引いた。
艶やかな赤が、白い世界に映える。

『嫌な花だ』
無意識に瀬戸口は顔をしかめた。

椿、別名 落首花。

まだ花の枯れやらぬ内から、その花丸ごと、ポトリと落ちる。
その様を、潔し良しと愛でる風もあれば、不吉であると厭う風もある。
しかし、概して、その特異な花の散り方が斬首刑を連想させると、忌み嫌われることの方が多い。武門の家であれば尚更である。
「なあ、お前さん家は庭木に椿なんて植えてんのか」
そこには、暗に古武道をたしなむ壬生屋の家に限ってなぜとのニュアンスが込められていた。
「ああ、あれですか」
壬生屋は瀬戸口の視線の先を追うと、庭の外れで鮮やかに咲き誇る椿の花に目を細めた。

「知りませんでしたか、壬生屋家の花は椿なんです」
「初耳だな」
『そうでしたか』
と言って、壬生屋は身辺を見回す。直ぐに目当てのものを見つけて手に取った。
「ほら、見てください」
そう言って、壬生屋が取り出した愛刀の鞘には、確かに 同心円上に三対の椿が隣り合う花と葉っぱを共有し合う形で外に向かって配置されている、いわゆる「三つ椿車」と呼ばれる家紋が彫られた銀細工が埋め込まれてある。
壬生屋が手渡してきた刀を手に取り、返す返す眺める。
スラリと鞘から抜くと、乱れた刃文が鈍く光りをはじいた。長さ2尺4寸ほど、長身の瀬戸口には短めだが、握った柄から心地よい重量感が伝わってくる。厚味で反りが浅く、いかにも朴強な造りの中に、骨を砕きそうな凄味が隠れている。
ぞくりと、背筋に悪寒とも快感ともつかぬものを感じて、瀬戸口は刀を鞘に納めた。
良い刀には違いない。
だが、この刀は、長年に渡る血と怨を凝集して固めたような禍々しさを纏っている。圧倒的な殺傷力と引き替えに、ともすれば、陰鬱な狂気に引き込まれかねない危うさを使い手は抱える羽目になる。
この手の凶刀の、厄介な点は、刀がその使い手を主人と認識しておらず、自らの糧としか見なしていない点にあった。
使い手の感情に共鳴し増幅させ、その力量以上の力を引き出してくれるが、結果としてその精神を喰らいつくし破滅へと導く刀。
もし、この刀を扱える者がいるのならば、それは、何ものにも揺るぎない強靱な精神を持つ剣の達人か、そうでなければ、何も考えぬ愚者ぐらいだろう。
どちらにしろ、とうてい瀬戸口の手に負える品物では無かった。
では、名人でも愚者でもない壬生屋が、刀を使いこなせるのはなぜなのか。
疑問が残った。
「良い刀だ」
「分かりますか」
嬉しそうな壬生屋。
「豚に真珠」
ぼそっと、瀬戸口が呟く。
「失礼な」
壬生屋は、瀬戸口から引ったくるように、刀を取り返した。
今まで、刀を取り巻いていたどす黒い圧迫感がスッと消えてしまう。
「ほう」
感心したように声を上げる。
「なんですか」
怪訝そうな壬生屋。
「いや、なんでも」
「変な人ですね」
そう言いながら、壬生屋は愛おしげに刀を撫でている。
どうやら、壬生屋が刀を隷属させているというよりは、刀の方から壬生屋は庇護すべき弱者と見なされているらしい。
おかしいのは当の本人がその事にまるで気がついていないことだった。
変なのは、どっちだか、と瀬戸口は思った。

「椿ねぇ」
再び、視線を庭の椿に戻す。
壬生屋も瀬戸口の言わんとする意味がわかっているのだろう。
「武門の家の家紋に椿だなんて、珍しいでしょう」
と述べた。
「普通、椿は不吉であると、厭われるのが常なのですが。壬生屋にあってはその潔さを愛で、かくあるようにと剣の神髄を示すものなんです。その昔、壬生屋家の先祖で人々に害をなす“あしきゆめ”と戦い命を落とした若き巫女の倒れた地から生えてきたのが椿の花とか。村人はその死を悼み、彼女の魂の安らかなることを願って、椿の花を祭ったそうです」
「ああ」
嫌な思い出だ。
伝承は風化して形を変え、真実の欠片はわずかに残るのみ。
微かに残る、かの人の残渣。
実際、村人が椿を祭ったのは、祟りを怖れたからだ。
“あしきゆめ”と戦い命を落とした若き巫女ではなく、“あしきゆめ”を倒した結果、用済みとなって村人達に殺された若き巫女の。
かくも都合良く、事実はねじ曲げられ美化されていく。
やりきれない思いが瀬戸口を満たした。
「壬生屋の花が椿だから、庭木にも椿が植えられている訳か」
「それもありますけど、なにより、あの木は特別なんです」
「なぜ?」
「聞きたいですか?」
疑問系に疑問系で答える壬生屋。もったいぶって、聞いてくれと言わんばかりの態度。
「いや、言いたくないなら構わない」
素っ気なく答える瀬戸口。
瀬戸口の中で椿に対する興味が急速に冷めていっていた。
これ以上、話題にする気も起きない。
「………誰も、言いたくないとは…」
一方的に突き放された壬生屋は、ゴニョゴニョと語尾が小さくなる。
そのまま無視していると、チラチラと瀬戸口の様子を伺うので、埒があかないと半ば諦め気味に壬生屋を促す。
「で?」
「はい?」
「どこが、どう云う風に特別なんだ。あの椿は?」
パッと、壬生屋の顔が明るくなる。
「あの椿は私と兄さんの思い出の木なんです」
「壬生屋の兄さん?」
「はい、あの木は私の10歳の誕生日に兄さんと一緒に植えたものです。ですから、今年で7歳ということになります」

『兄さん…か』
壬生屋家の次期当主であり、壬生屋の兄であった壬生屋……。
過去形なのは、かの人は既に故人であるからだ。
15歳にして、天然夢想流の免許皆伝を許された天性の剣客。そして、その強さに比例するかのように、どこか世間ずれした飄逸な雰囲気を漂わせていた男。
兄について語るとき、壬生屋はひどく透明な優しい表情をする。どこか遠くを見つめるように、懐かしむように。
壬生屋にとって兄とは絶対にして不可侵たる聖域なのだ。
だから、壬生屋から兄の話を聞く事は、瀬戸口にとって複雑な心境だった。
誰にだって他者には立ち入ることの出来ない領域があり、その事を咎めることは出来ないと十分に理解しつつ、尚、少しばかりの寂しさを感じる。
もっとも、他者に立ち入ることの出来ない領域をかかえているという点では瀬戸口は壬生屋の比でない。
一見、誰にでも気さくで対人関係が良好に見える瀬戸口だが、その実、精神的許容範囲は遙かに狭い。
瀬戸口の人当たりの良い笑顔は、それ以上瀬戸口の領域に人を入り込まさないための防壁であり、拒絶である。
この点、馬鹿正直に真っ正面からぶつかっていっては、あえなく撃沈している壬生屋とは全く対照的だった。
それゆえ、瀬戸口は、壬生屋の飽くことなく特攻する姿には、学習能力が欠如しているのか、不屈の精神の持ち主なのか、どちらにしろ呆れるを通り越して感嘆の念すら抱いていた。
壬生屋は自らの生真面目さを自嘲して、不器用であると述べるが、瀬戸口はそうは思っていない。
確かに、余計なお世話としか思えない細々かとした諌言の数々は、青臭い狭量な正義感から出たものに過ぎないかもしれない。しかし、この恐ろしくもっこすなもののふ女は、少なくとも他者に対し誠実であった。
もし、自分が他人受けが良いというのであれば、多少、他人の心の機微を読むのに敏感で、それに自分を合わせてやるのが上手いからだ。それは、オペレーターという、他人を誘導する職務に適した性質では有ったけれど。
あくまで、表層的な処世に長けているに過ぎないと思っている。きっと、数年経てば顔も忘れられてしまうし、そうであればよいと願う。

「ところが、ですね。この花はちょっとしたいわく付きなんです」
壬生屋は瀬戸口に対して意味ありげに笑った。
「少し、失礼いたします」
そう断ると、廊下から、軽く中庭に飛び降り、池の直ぐ脇に植えられている椿の灌木に近づいた。
枝葉に軽くつもった粉雪を優しく払ってやると、白い結晶は風に舞った。
壬生屋は、赤い椿の花を枝ごと手折ると、瀬戸口を振り返る。
正面に枝を構えると、呼吸を整え、頭の中で目の前の景色を正確に再現する。そして、数秒後そうなるであろう姿を。
ほんの少しの間。
「壬生屋?」
瀬戸口の疑問を笑顔で制すると、壬生屋は刀を打ち込むように枝を上段から鋭く振り下ろした。
「なっ……」
短く風を切る音が聞こえ、それと共に紅い残像が弧を描いた。
振り切られる衝撃に花は落ちる、瀬戸口が思った。
全ては一瞬のことで、目の前には、ふたたび何事もなかったように、先ほどと同じ姿勢で佇む壬生屋がいた。
壬生屋の周りを紅い花びらが数枚ゆらりゆらりと落ちていく。
しかし、花は予想に反して落ちない。
ただ、花びらが何枚か飛び散るのみで、がくにはまだ、未練がましくほとんどの花びらがぶら下がっていた。

散らない椿。

満足そうに微笑む壬生屋と目が合う。
そこで、1つの答えに行き着いた。
同じ椿科に属し、姿形が極めて近しいものの、椿とは違う性質を持つ花の存在に。
「…………山茶花……か?」
ようやく思いついた解答を口に出す。
山茶花
学名、camellia sasanqua 
この椿科の常緑広葉樹は11月初頭から12月下旬にかけて、白、ピンク、赤、など、色とりどりの花を咲かす。
彩りの乏しい冬の林を飾る山茶花は、その形状が椿と似通っており、素人目には一見区別が付きにくい。
椿に比べ山茶花の方が花や葉が小さく、子房、若枝、葉柄に産毛がある事から、そうと知れるが、一般的に花びらがバラバラに散るのが山茶花、花ごと全体がポトリと落ちるのが椿と考えれば、まず間違いない。

よくよく、観察してみれば、なるほど、灌木の周囲に落ちているのは、赤い鮮やかな花びらであって、花そのものが散華しているわけではないのだ。
壬生屋は軽いいたずらを看破された子供のように首をすくめて、
『是』
と答えた。

壬生屋は、行きしに自分が通ってきた足跡の上を辿り戻ってきた。熊本では滅多に見ない雪だ、たとえうっすらつもってるに過ぎないにしろ、珍しいのだろう。
変なところで可愛らしい。
壬生屋が差しだした枝を何気なく受け取る。ふれた指先が冷たい。
ジャケットのポケットから取り出した携帯用カイロを投げ渡す。
「ありがとうございます」
嬉しそうに、受け取ると両手に握りしめる。

「可笑しいでしょう。壬生屋の花は椿なのに、あの花は、本当は山茶花だったなんて」
「ああ」
壬生屋の意図を計りかねた瀬戸口は曖昧に返事を返す。
「兄さんが何を思って、椿ではなく山茶花の花を植えたのかは分かりません。あるいは、ただ単純に椿と山茶花を見誤っただけかも知れませんしね」
瀬戸口はそれはあるまいと思った。
壬生屋から聞く壬生屋兄は、剣客として一流であったが、剣を志すものにありがちな血の気の多さに欠けている。
ただ、己の道は剣のみ、といった苛烈さがない。反対に、妹は血の気が溢れかえっているのは、なんとも皮肉だ。
他人との争いを厭うと言うよりは、元来何事にも執着が薄いのだろう。
道場で剣の腕を磨いているより、縁側に寝転がって本を読んでいるか、植物を眺めている方が好きな男なのだ。
自然、本草学にも造詣が深い。そんな、壬生屋兄が椿と山茶花を見誤るような初歩的なミスを犯すはずがなかった。
壬生屋自身もそう思っていないのは明らかであったが、そうと尋ねるほど瀬戸口は大人げなくない。
では、壬生屋兄が何を思って、山茶花の花を植えたのか。
答えは、考えるまでもなかった。
何事にも淡泊だった男が、唯一執着を見せたもの、それが、妹なのかも知れない。
「壬生屋は、大切にされてたんだな」
しみじみと呟く。
壬生屋の極度なブラコンぶりにも納得がいくというものだ。
とても、敵わない。
「私、母を早くに亡くしていますでしょう。父はあの通りの人ですし、兄さんが私を大きくしてくれたようなものです」
瀬戸口に追い打ちをかけるような壬生屋の一言。
「もっとも、私も、それを知ったのは最近なんです。丁度、去年の今ぐらいの季節でした。舞さんが、やはり瀬戸口さんと同じように、あの木を見とがめて、失礼なことに、『見事な山茶花が咲いているな』なんて仰られたんです」
『おかげで、大喧嘩しました』
と、壬生屋は付け加える。

「あげく、あの人ったら、草本図鑑を図書館から持ち出してきて、私に椿と山茶花の違いについて延々と講釈たれるんです。ですが、私、壬生屋家の意地と誇りにかけて、断固としてそれを認めませんでした」

「だろうな」
瀬戸口が軽く相づちを打つと、壬生屋が少しふくれたように睨み付ける。
「私もムキになって、でも、一方的に怒っているのが私で、舞さんったら私が何をそんなに怒っているのかが、まるで分からないんです。その事に、また、一層、怒りが沸いてきて」
その様子が、手に取るように脳裏に浮かんで瀬戸口は苦笑した。顔を真っ赤にして激昂する壬生屋と、あくまでも表面に動揺が出ない、ある意味不器用な芝村。
ありそうなことだと。
端から見れば、大層他愛のないことでも、本人にとっては重要な問題なのだ。
何分、悪気はないにしろ芝村のお嬢さんには、人間の行動原理は全て理屈で割り切れる。いや、そうでなければならないと、あえて、自分に言い聞かせているような節がある。
「あわや、決闘かの事態でした」
物騒なことをサラリと述べる。
「なるほど、ね」
手にした枝を軽く振り回すと、花びらが一枚ハラリと落ちた。
「山茶花か」
「山茶花です」
淡々と壬生屋が返す。

あの時、支離滅裂に、その花が椿であることを主張する壬生屋に対して、舞が静かに問うた。
『なぜ、その花は、椿でなくてはならず、山茶花ではダメなのか』
と。
もちろん、舞の冷静さは壬生屋の怒りに火を注ぐ以外の何ものでもなかったが、その事に当人は気づいていなかった。
舞は怜悧ではあったが、時に真実がどれほどその人を傷つけるかにまでは、考えが及ばないのだ。
『生物学的には、その植物は山茶花以外の何ものでもない。だが、お主がそこまで、椿に固執するのには、そこに何らかの意味があるはずだ』
『あなたに壬生屋を辱める資格なんて』
『私には、お主を辱める気持ちなど毛頭ないし、そんな必要もない』
『あなたには、分かりません』

絞り出すように声を発する。屈辱に身が焦がれそうなほど熱い。
なぜに、自分はこれほどまでの辱めを受けねばならぬのか、目の前の人物が憎い。
違う、本当は分かっているのだ。ただ、それを認めたくないだけで。
怒りにすり替えているだけだ。
なんという、欺瞞。

『私は、私は』
もはや、言葉にならない。意味不明の単語を繰り返すだけの壬生屋。
椿でなくてはならなかったのだ。
壬生屋、だから。

壬生屋。
椿。

紅い、紅い、紅い、椿。
落首花。

−ワタシノ兄ハ−

椿のようだった兄。

−手足ヲ切リ取レテ−

あまりに鮮烈すぎて、あっけなくて。

その首が、まるで、

椿のように、

−綺麗ニ 飾ラレテ−

紅い、紅い、紅い、椿。

あまりに美しすぎて、忘れられない。

『 っ壬生屋、おい、壬生屋』
いつになく、狼狽した舞の声を遠くに聞いていた。

庭に植えられた花が椿ではなく、山茶花であると認識したとき、初めて、兄を理解した気がした。
一旦、認識してしまうと、それはいとも簡単にストンと壬生屋の中に落ち着いた。霧が晴れるようにクリアーになる思考。
それと共に押し寄せてくる痛みの奔流。今まで目をそらしてきた報いだった。

古い血に囚われた壬生屋の家を、兄は疎んじていた。
兄は、妹に壬生屋として生きることを望んではいなかった。
なのに、自分は壬生屋として死んでしまった。
あの日から、壬生屋はひたすら壬生屋として生きてきた。
壬生屋の名に恥じぬよう、壬生屋の名を辱めぬよう。
ただ、兄のために。
なのに…
兄の願いと、壬生屋の思いはあまりに遠く。
壬生屋は初めて、兄を憎んだ。
そして、泣いた。

一人自分の思考の中に沈んでしまった壬生屋に瀬戸口が声をかける。
「壬生屋?」
「本当は、椿なんて嫌いなんです」
瀬戸口の方を見向きもせず、独白のように語る壬生屋。
「私は兄さんのことを誰よりも愛しています。だけど、同時にあの人を許すことが出来ない。私は泣くことさえ許されなかった。自分勝手に逝ってしまって、残されたものは悲しむことさえ出来ない」
壬生屋の手を見る、握りしめた拳が微かにふるえている。
「壬生屋だから?古来、倭の國が勃興して以来、あしきゆめから民を守ってきた壬生屋の末裔だから?」
「そうですね、壬生屋、だから」 
『きっと瀬戸口さんは、くだらないと仰るんでしょうけど』 
そう言って、壬生屋は寂しげに笑った。

熊本第13歩兵師団。
屈辱的大惨敗をきした阿蘇攻防戦。
人類に比べ、圧倒的に多い幻獣の数。
友軍からの援護もなく、弾薬も底をつきかけた状況の中で。
兄は自ら撤退戦のしんがりを申し出たらしい。
火器、銃器を持たぬまま、ただ太刀1つで、味方全てが撤退ラインにたどり着くまでの間。前線で剣を振るい続けた。

誰もが、兄を褒めそやした、 
『さすがは、壬生屋の』
と、分家の者達の無責任な言葉。
手に残された、傷ついた獅子賞は重かった。
息子を失い憔悴しきった父親の背中。
あまりに弱々しく、小さかった。

通夜の席、客間のから漏れ出す常夜灯の光り。とぎれとぎれに聞こえてくるささやき声。
『…………奥さん…に続いて、嫡男まで……』
『壬生屋の………家は………』

『分家の……結城辺りから……養子でも……』
『まだ、…未央ちゃんが……』
『しょせん、女たい』
『………に、万物の精霊の力も使役できん、阿蘇の神の声も聞くこともきん、娘に何ができると』
『…今時、そんな時代錯誤な事を言っちょるから、…村に……』
『なんじゃと、もういっぺん言って……』
ガタガタと机の上の物がひっくり返る音。
『………っ…て……』

密やかなざわめき。
まんじりともせずただ虚空を見つめ、冷たい布団の中で壬生屋は聞いていた。

「全て、私の身勝手だってことは分かってます。でも、自分では、どうしようもできない」
「分かる気がするよ。死者は、憎むことも、泣き言でさえ許しちゃくれないんだ」
壬生屋は顔を上げ、瀬戸口を仰ぎ見た。
怪訝そうな表情に続く言葉。
「意外でした。てっきり軽蔑されるかと……」

「俺はそこまで冷血漢じゃないぞ」
瀬戸口が苦笑いする。
「悲しんでる女性を、ほったらかしにする程、無粋でもない」
瀬戸口は手を伸ばすと、壬生屋の肩を抱き寄せた。密着する体温。
思いもかけぬ瀬戸口の態度に、狼狽し茹で蛸のように真っ赤に染まる壬生屋の顔。
「、、ぇっと、そ の  ですから。私はそんなつもりで、は」
予想外の出来事には、てんで弱いのだ。
壬生屋も一介の軍人であるならば、あらゆる状況、可能性、を想定し、迅速かつ的確に対応すべく訓練されるべきだ。
とは、瀬戸口のささやかな言い訳。
「泣きたいなら、俺の胸をお貸しするよお嬢さん」
戯けた調子で瀬戸口が述べた。
「結構です」
そう言いながらも、壬生屋は瀬戸口の手を振りほどこうとはしない。
紅く染まった顔に憮然とした表情を隠そうともせず、そっぽを向いている。

同じだと思った。壬生屋も自分も。
椿になりたいと願って、でも、椿にはなれなかった。
誰よりも椿を愛していながら、同時に誰よりも椿を疎んじている。
綺麗な椿。
清らかで、潔くその花を散らす。

……ギ オン

村の長が、あの人に酒を勧める。
あの人の苦労を労い、“あしきゆめ”との戦に勝利したことを祝う祝詞。
微かに震える男の指先。
酒を満たした杯は波打ちて、こぼれた滴があの人の衣を濡らす。
狼狽し、非礼を詫びる声に、あの人は穏やかに微笑んで、杯を飲み干し。

ゆっくりとくずおれる体。

唇からこぼれ落ちる。
紅い、紅い、紅い、椿。

俺は声にならない叫び声を上げ、あの人に毒を盛った人間の体をぼろ切れのように引き裂いた。
 
「ヤメテ」
あの人の制止の声。

「ドウカ、許テホシイ」
地面に倒れた男の謝罪の言葉。

「  シ…     ネ シオ   シネ    」
鬼の咆哮。 

『………おん、……を恨まないでね。これは、どうしようもないことなのだから……』
あの人は、俺の頬を流れる涙を拭って。

どうしようもないことだなんて、物わかりの良い顔をして欲しくなかった。
本当は、醜く泣きわめいて欲しかった。幻滅するぐらい。
怨嗟の言葉をまき散らして欲しかった。理不尽な運命を呪って。
憎むことが出来たら、どんなに楽だったか。
あの人は、どこまでも潔く、美しかった。

『………、  女の人…と、子供達を守って…ください  』 

圧倒的な残酷さで突きつけられるあの人の最後の願い。
全てを、許せ、と。
ならば、俺は、あの人を失う、この喪失感を、怒りを、どうすればいい。
どうすれば。

綺麗なものに憧れて側にいたいと願っても、側にいると今度は自分の醜さに気づかされる。
だから、卑怯にも自分はあの人から逃げ出した。
その事は、役割の無くなったあの人を排除した村人達の行為となんら変わることはない。
千年の時を経て、尚彷徨い続ける魂が贖うことの出来ない、それこそが瀬戸口の原罪。
向き合うべき弱さは、いつでも自らの内にある。

「愚かもんだな、お前さんも俺も」
大きな温かい手が優しく頭を撫でる。その心地よさに壬生屋は目を閉じた。
女の手とは違う、ごつごつと節くれ立った大きな手。
昔、同じように、落ち込む自分を慰めてくれた手があった事を思い出した。
『兄さん』
壬生屋は無意識のうちに、猫がそうするように、頭を瀬戸口の肩にすりつけた。
甘えるその仕草に珍しいこともあるものだと、瀬戸口は壬生屋の髪をクシャリとかき乱した。
くすぐったそうに壬生屋が首をすくめる。
「瀬戸口さんは、以前、私に、あんたは自殺願望があるのか?って仰られたことがありますよね」
「さあ、そんなこと、言ったか?」
しれっととぼける瀬戸口。
本当は、ハッキリと覚えていた。
白く、消毒液が強く匂う病院の一室。
ベットに固定され、点滴のチューブを何本もつながれ、身動きのとれない壬生屋を前にして、開口一番に述べた台詞。

『あんた、自殺願望でもあるのか?』

しかも、嫌みや皮肉でなく、本気でそう尋ねた分、質が悪かった。
一緒に、見舞いに行った滝川達の唖然とした表情。
問われた当人は、口に当てられた呼吸器のため抗弁の言葉さえ発することも出来ず、だだ、悔しげに瞳を歪め瀬戸口を睨み付けていた。
今にして思えば、随分無神経極まりない発言だった。
だが、後悔はしていない。
あのころの壬生屋は、そう言わせるだけの危うさ、強迫観念に駆られたような痛々しさを抱えていた。

「私の戦い方が、紙一重の危ういものであることは十分自覚しています」
「自覚してるなら改善の努力を惜しまないことだ」
辛辣に聞こえるが、こと戦闘に関しては瀬戸口は壬生屋を甘やかす気は微塵もない。慰めや同情などは戦闘時に、何の助けにもならないことを良く理解していたからだ。軍人としての冷徹さは、瀬戸口の優しさでもあった。
「分かっています」
「なら、いいさ」
「ただ…」
「ただ?」
「ただ、昔も今も、死にたいと思ったことは一度もないんです」

「……………」

「当たり前だ」
何を今更とばかり、瀬戸口が壬生屋の頭を思いっきりこづいた。
「〜〜〜ぅううう〜ぅ」
声もなく壬生屋が呻く。
「自己犠牲が美徳だなんてふざけたこと考えてるんじゃないぞ。あんなもん、究極の自己満足だ」

あれから、何度戦闘に召集されただろうか、時間稼ぎの捨て駒にしか思われていなかった学徒兵が、今や、熊本屈指のエースパイロットの一人に数えられている。
大太刀二本で、重い装甲も付けず、切り込み隊長よろしく、戦場を駆けめぐる姿は良くも悪くも目を引くのだ。
一度など、戦意高揚のプロパガンダに利用されかけたのだから、その勇猛と言うか、無謀な戦闘スタイルを端的に表している。
部隊発足当時のひよっこパイロットと今の壬生屋の双方を知る瀬戸口には複雑な思いだった。
確かに、昔に比べ、壬生屋の家という枷から放たれた分、身を削るような悲壮感が無くなった。
だからといって、その特攻癖が簡単に無くなるものでもなく。
むしろ、今まで無理矢理押さえつけられていた壬生屋そのものの本性が解放されたかのような。
今度は逆に水を居た魚のように生き生きと特攻をしている。
それはそれで、十分質が悪い。

「ただ、剣の技に生きるのみ、なんて、台詞述べるつもりは毛頭ございません。隊での私の役割、適正を考えた結果、一番ベストだと思える事が剣であったまでのこと」
「ちっとは、自重してくれ……」
「だったら、きっちりオペレートしてくださいまし」
「おい」
「これからも、私は特攻いたします」
「断言するな」
思わず殴りたくなる衝動をグッと堪える。
「私は執念深いし、往生際も悪いんです」
どこか吹っ切れたように、サバサバした様子で壬生屋が言う。
「よく、知ってる」
「覚悟なさいまし」
「怖いな」
瀬戸口は自分が戦闘でゴブリンに殴り殺される確率と、神経性胃潰瘍で心労死する確率を思い比べた。
思わずため息。
ゴブリンの方が、なんぼか可愛い。特攻ミノタウルス壬生屋に比べれば。
「きっと、前世でとてつもなく重い業を背負ってきたんです」
知ってか、知らずか、時に壬生屋はドキッとするような台詞をサラリと述べる。
「違いない、その報いを今受けてる」
心底情けなさそうに瀬戸口が言った。
「非道い言いようですね」
他愛のない憎まれ口の応酬。
言葉とは裏腹に、コロコロと笑いながら壬生屋が返す。つられて、瀬戸口も笑った。

 
そして、又会話がとぎれた。
チラチラと舞い落ちる雪。穏やかな沈黙。

「壬生屋」
「はい」
「お前さんは、椿 にはなるなよ」
瀬戸口がポツリと漏らす。

椿 には なるな と。

紅い、紅い、紅い、椿。

艶やかで、儚い。

紅い。

『 …さん、兄さん。きれい、きれいだね』

…   み … ぉ   未央

『未央』
『なに』
『これは、お前の花だよ』

ちっちゃな頃、一緒に山茶花を植えながら兄が壬生屋に言った言葉。
なにも知らずに、ただ無邪気に喜んでいた幼い自分。

  これは         お前の
                花 花 だだ       よ
       椿には
  なる   な お前  の
               なるな       花  だよ

瀬戸口の言葉が、兄の言葉に重なる。
嗚呼、
それは、こういうことだったのだろう。

顔を上げて瀬戸口の端正な横顔を見つめるが、静かなその表情からは何も読みとれない。
元々、底の読めない男なのだ。その上、滅多に、本心を吐露したりしない。
それでも、瀬戸口の願いと、兄の願いは同じものだった。
胸が熱い。
「はい」
壬生屋が力強く答える。
瀬戸口は壬生屋を軽く一瞥すると直ぐに視線を反らせた。

見上げる空には、厚く雲が立ちこめている。
雪は、その速度を増したようだった。

「積もりそうだな」
瀬戸口が呟く。
「積もると良いですね」
壬生屋が答えた。

焼け跡も、瓦礫も全てを覆い尽くすように雪は降り続ける。
音もなく、ただ、静かに舞い落ちる、戦場の空に。