キスカ撤退作戦
(ケ号作戦発動)


この文章は、成美堂出版『太平洋戦争・日本帝国海軍』を参考に編集しました。
他にも、学研『太平洋戦争戦史シリーズ4・ミッドウェー海戦』及び、
新紀元社『太平洋戦争・海戦ガイド』を参考にしています。


 昭和17年5月5日、大本営は山本五十六長官に押し切られるかたちで、次の2作戦を発令しました。
「聨合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ『AF』及ビ『AO』西部要地ヲ攻略スベシ」
(AFはミッドウェー、AOはアリューシャンの略号)

 ミッドウェー攻略作戦と並行して6月5日実施された西部アリューシャン攻略作戦。敵空母撃滅の積極的作戦であったミッドウェー作戦は完全な失敗となり、逆に正規空母4隻と搭載航空機を全て失う大打撃を被りました。一方の西部アリューシャン攻略作戦の、キスカ島とアッツ島と共に全く無抵抗で占領しています。島には無線電信所や気象観測所が在る程度でしたが、日本海軍は水上基地を設け、防備部隊を常駐させていました。しかし、ミッドウェー島を攻略して東方面防御ラインとしてのアリューシャン攻略ですが、ミッドウェー攻略は果たせず、北方に飛び出した点としての機能しかない維持の困難な基地となりました。

 占領後、間も無く米大型爆撃機による爆撃が連日のように続き、付近海域には敵潜水艦も出没して、駆逐艦や輸送船に犠牲が出ていました。

 8月7日には、重巡2隻、軽巡4隻、駆逐艦4隻からなる米艦隊がキスカに来襲して艦砲射撃を加えています。こうした米軍の動きは反攻上陸を予想させましたが、守備兵力は僅かな人員しかいませんでした。翌18年3月27日、輸送作戦従事の護衛部隊と、輸送を阻止しようとした米艦隊が交戦して、アッツ島沖海戦が行なわれて輸送は中止。これ以降、両島への補給は潜水艦による水中輸送だけとなってしまいます。

 5月12日、アッツ島に対し激しい空襲と艦砲射撃の後、約1万1千名の米軍の上陸が開始され、アッツ島守備の北海支隊の必死の抵抗も空しく次第に追い詰められ、29日に全軍玉砕。アッツ島には、陸軍山崎大佐率いる約2700名の守備隊がいましたが、少ない人数で2週間以上戦い貫いての尊い犠牲でした。

 大本営は、アッツ島への増強や奇襲も検討していましたが、自信の在る対策は得られず、18日にはアッツ島放棄を決定していました。21日には、正式にアッツ島放棄の決定とキスカ島撤収を指示していましたが、アッツ島の守備部隊の救出はままならず、手をこまねいている内に悲惨な結末となりました。その運命は遠からずキスカ島守備隊にも及ぶものと予想され、敵軍が上陸しないうちに早急な救出作戦を迫られます。当時、キスカ島には峯木少将率いる陸軍北方守備隊2429名(内軍属9名)、秋山少将が指揮する第51根拠地隊3210名(内軍属1160名)の合計5639名が駐屯していました。

 アッツ島玉砕の29日、キスカ島撤収作戦である『ケ号作戦』が発動され、第1期撤収作戦として潜水艦による輸送が開始されました。しかし、潜水艦での輸送量では9月末までかかると予想され、水上艦艇を強行接岸してでも一気に撤収するのが望ましいと考えられていました。潜水艦部隊は14隻を作戦に従事させて、行きは兵器弾薬と食料を搭載し、撤収人員を搭載して帰途についていました。6月18日までに13隻がキスカに着き、撤収した人員は872名に達しましたが、1回の輸送人員は60名程度と少ないうえ、本作戦に従事した『伊七潜』『伊九潜』『二四潜』が失われています。米軍も、6月中旬から駆逐艦による対潜哨戒を始める等、次第に潜水艦による輸送が困難になってきたので、6月23日第1期の潜水艦による『ケ号作戦』は終了。続く、2期作戦は水上艦艇による一挙撤収作戦であり、第五艦隊の第一水雷戦隊が中心で編成されています。指揮官は、着任したばかりの木村昌福少将が執り、参加艦艇は軽巡『阿武隈』『木曾』、駆逐艦『島風』『長波』『綾波』『大波』『五月雨』『白雲』『薄雲』『朝雲』『響』『若葉』『初霜』と補給艦『日本丸』、海防艦『国後』、特設巡洋艦『栗田丸』の16隻が参加と計画しました。
 撤収地点はキスカ湾、作戦予定日は7月11日と決定しましたが、すでにキスカ島は米艦と航空隊に封鎖されていて作戦は困難が予想されていました。木村少将を指揮官とした撤収艦隊は、7月7日午後7時30分に幌筵基地を出撃。成功の鍵は、この地域特有の濃霧の発生にかかっていましたが、決行予定日前日に高気圧が発生して霧が薄くなり、キスカ島の周囲が晴れてしまいます。これでは敵に発見される危険が高く、突入日を延期して艦隊はひとまず反転させ、13日、14日と繰り下げていきますが15日にも晴れていて、遂に予定を断念して帰投せざるをえませんでした。

 艦隊は18日に幌筵基地に入港し、作戦を中止した事で批判を受けますが、木村少将は意に介せず再度の作戦準備と気象情報を集めて霧の発生を待ちました。作戦中止の1週間後の7月22日、オホーツク海に低気圧が発生して東に進み、西部アリューシャンに霧が多く発生するという予報に、木村少将は好機到来に出撃を決意します。今回の出撃を逃せば、8月にはベーリング海は晴天が続くと予想され、そのうえ3度目の出撃に必要な燃料は無いという背水の陣での出撃でした。

 出発日の22日、午後7時に出撃予定でしたが、霧が濃すぎて9時に出港して14.5ノットで南下を開始。23日も濃霧は続き、変針地点に達しますが霧による隊形混乱を考慮して南下を続け、補給船の航行が容易なように速力を11ノットに落としての航行に切り替えます。その後、『国後』と連絡がつかなくなりますが、キスカ島に進路を転じて変針。24日も霧は一時は薄くなりましたが濃霧は続き、補給船の『日本丸』など数隻の所在も分らなくなっていました。隊形や燃料に不安も在りましたが、撤収作戦の為に搭載した陸軍高射砲の射撃準備などを進めていたところ、この砲声により位置を知った『日本丸』が姿を現し、他にも所在不明艦が集まってきて、『国後』以外は全艦復帰を果たしています。25日も霧は立ちこめ、午後には駆逐艦の燃料を補給して27日に突入を予定。日程は遅れていましたが、敵艦にも遭遇せず比較的順調に推移していた日本艦隊にアクシデントが起こります。26日、所在不明であった『国後』が突然姿を現し、『阿武隈』の右舷中央に衝突して、数隻を巻き込んだ玉突き事故を起こしてしまいます。損傷した『若葉』と『初霜』は戦速発揮が困難な状況となり、『若葉』は帰投し、『初霜』はキスカ突入を断念して補給船の護衛に回る事に決定。

 一方の米軍は、哨戒機に拠る情報から日本艦隊が接近している事をある程度は察知していました。しかし、連日の濃霧により、はっきりとした所在は判明していません。日本艦隊進出予想海域のキスカ西方を索敵した米艦隊は、霧の中でレーダーが目標らしきものを捕らえ、戦艦2隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦5隻は一斉にレーダー射撃で攻撃を実施します。しかし実際には、日本艦隊はこの地点にはおらず、米艦隊は幻の艦隊の影像を捉えて30分にわたり攻撃を加えていたのです。日本軍にとって幸運は続き、この攻撃により燃料と弾薬が不足した米艦隊は、補給のために封鎖を解除して引き揚げてくれました。この偶然の間隙に日本撤収艦隊は、霧の薄くなったキスカ港に無事突入して、27日午後1時40分、連絡により集合待機していた守備隊の収容を開始します。約1時間で、5183名の収容は終わり、午後2時35分には全艦出港しました。出港と同時に再び深く濃い霧が拡がり始め、全艦が港外に出た時には艦首が見えない程の濃霧となり、敵艦に発見される事なく31日に幌筵島片岡湾に全艦帰投しました。米軍の封鎖解除といい、霧の発生状況といい最高の偶然が重なり、天運に恵まれた日本艦隊は1人の犠牲者も出さず、撤退作戦を無事終了しています。

 撤退から3日後の7月30日、日本軍の撤退を知らない米軍は、駆逐艦に無人の日本軍陣地を砲撃させています。8月初旬にも戦艦2隻、軽巡3隻、駆逐艦9隻が2312発の艦砲射撃を実施し、15日まで砲撃は続き、この日の朝3万4千名の部隊を上陸させますが、同士討ちで死傷者56名を出しています。霧の状況を見極め、批判に耐えて無謀な作戦行動をしなかった木村少将は、日本軍には少ない沈着冷静に戦況判断できる優れた作戦指揮者であったと思います。

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