坊ノ岬沖海戦
(大和、帰還セズ)


この文章は、新紀元社『太平洋戦争海戦ガイド』など下記の書籍を参考に編集しました。
成美堂出版『太平洋戦争・日本帝国海軍』、光人社NF文庫『写真太平洋戦争 第8巻』、
同じくNF文庫『海戦事典』、PHP文庫『太平洋戦争・主要戦闘事典』、
学研『戦史シリーズ11・大和型戦艦』を参考にしています。


 昭和20年1月にフィリッピン陥落。3月に硫黄島。そして3月26日、沖縄を守る
「天一号作戦」が全軍に下令されますが、思うほどダメージを与えられず、4月1日に米軍は沖縄本島に上陸を開始しました。
 日本海軍の水上艦艇実戦部隊は開戦以来の激闘に損耗し、わずかに残った動かせる艦艇は戦艦『大和』と軽巡『矢矧』、駆逐艦8隻『冬月』『涼月』『磯風』『浜風』『雪風』『朝霜』『霞』『初霜』の合計10隻が残っているだけでした。他にも横須賀港には「長門」、瀬戸内呉軍港近隣には航空戦艦『伊勢』『日向』、重巡『利根』『青葉』、軽巡『大淀』『矢矧』などが健在でしたが、燃料の重油が無くて訓練どころか空襲による回避行動もできない状態に陥っていたのです。航空部隊の損耗も激しいものでしたが、陸海軍航空隊による4月7日突入予定の航空特別攻撃と、在沖縄陸軍部隊の総攻撃
「菊水一号作戦」(海軍呼称)を発動します。この航空攻撃と呼応しつつ、持てる水上兵力の可動艦の全力を沖縄に投入して、艦隊の特攻作戦が決せられます。

 この海上特攻出撃に関して、戦後さまざまな諸説が在りますが、これを決意した連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、その当時の心境をつぎのように述べています。

 「当時連合艦隊では、もし沖縄が失陥すればいよいよ本土決戦の軒先に火がついたも同様で、海軍としてはありとあらゆる手段を尽くさねばならんという考えから、当時、健在した戦艦『大和』を有効に使う方法として、水上特攻隊を編成して、沖縄上陸地点に対する突入作戦を計画した。(中略)私は成功率は50パーセントはないだろう、五分五分の勝負は難しい、成功の算、絶無だとは勿論考えないが、うまくいったら奇跡だ、というくらいに判断したのだけれども、急迫した当時の戦局において、まだ動けるものを残しておき、現地における将兵を見殺しにするという事は、どうしても忍びえない。
 かといって、勝ち目のない作戦をして、大きな犠牲をはらうことも苦痛だ。しかし多少でも成功の算があれば、できる事は何でもしなければならぬ、という気持ちで決断したのだが、この決心をするには、私としてはずいぶん苦しい思いをした・・・」

 当時の苦渋が伺える文面で、「将兵を見殺しにできない」という気持ちは理解できます。ですが、水上特攻が成功したとて後の戦局が大きく動くとは考えられないのではないでしょうか。もし、戦争を止められたとしたら・・・大和乗組員は勿論、多くの沖縄国民が戦災に巻き込まれずにすんだ事でしょう(沖縄住民の三割が死亡)。諸説の一つとして、「菊水作戦」の裁可を天皇に仰いだおり、天皇から「航空部隊だけの総攻撃なのか」との質問に触発されたともいいますが、真相は不明です。もう一つは、沖縄の飛行場を占領されたおり、海軍が陸軍に飛行場奪還要請をだした事に対し、「米機動部隊と戦艦隊をやっつけてくれ」との逆要請を受けた結果とも言われています。この諸説から伺える点は、海軍首脳が積極的に立案していないという事です。
 連合艦隊司令長官・豊田大将は、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦「冬月」、「涼月」、「磯風」、「浜風」、「雪風」、「朝霜」、「霞」、「初霜」を第一遊撃部隊として編成し、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将の指揮下におき、「海上特攻隊」と名付けた。予定では、海上特攻隊は4月6日に山口県の徳山湾を出撃し、豊後水道を南下。九州南端を通過して東シナ海に入ってしばらく西進したのち、南西諸島西方を航行して沖縄へ向かい、4月8日に沖縄南西部に突入する計画でした。
 4月6日午後3時過ぎ、「大和」を含めた10隻は予定通り徳山湾を出撃します。しかし、午後8時20分に豊後水道を抜け、日向灘に出たところで早くも敵潜水艦に発見されてしまいます。

 報告を受けた沖縄攻略軍総司令官・スプルーアンス大将は、当初、デイヨー少将が指揮する戦艦部隊(戦艦10隻、巡洋艦13隻、駆逐艦23隻)でこれを攻撃しようとします。ところが、翌7日午前8時15分に日本艦隊を発見した索敵機の報告によると
「艦隊は針路を西へ向け航行中」との事でした。艦隊は佐世保に向かっているのではないかと考えたスプルーアンス大将は戦艦部隊による攻撃を諦め、航空攻撃に切り替えます。

 航空攻撃の命令を受けた
第58任務部隊のミッチャー中将は午前10時、隷下の空母軍から第1派攻撃隊約206機(爆撃機75機、雷撃機131機)と戦闘機180機の386機を発進させます。大和部隊に対する第1派攻撃は午後12時40分に開始され、「大和」は全速で回避運動に移りましたが、後部に爆弾2発、左舷に魚雷1発を受けました。この攻撃で後部射撃指揮所や副砲、レーダーを破壊され、速力が22ノットに低下。駆逐艦「浜風」も敵機を1機撃墜しますが、爆弾1発が命中して推進機(両舷のスクリュー)を破壊され、12時45分に航行不能となります。その2分後、海上を漂っていたところに魚雷1本が右舷中央部に命中し、「浜風」は真っ二つに折れ轟沈。同じ頃、軽巡「矢矧」も雷爆撃を受け、12時46分に航行不能となり、「涼月」は艦首に被弾損傷後、なんとか動ける状態でしたが行方不明となります。「朝霜」は機関故障のために戦列から落伍していましたが、12時10分「ワレ敵機と交戦中」という無電報告の後、同21分「90方向二敵機30数機ヲ探知ス」と発信したまま連絡が途絶えていました。

 続く第2派攻撃は午後1時22分に来襲し、まず「霞」が爆弾2発を受けて航行不能に陥ります。「大和」は雷撃隊に左舷を集中攻撃され、5本の魚雷を受けて左に7・8度傾斜し、速力も18ノットに低下しました。休む間もない3派攻撃により健在であった「磯風」にも、不運な至近弾が炸裂して機械室に浸水、完全に航行不能となります。先に航行不能となっていた「矢矧」は集中攻撃され、魚雷7本、直撃弾12発をあびて2時5分、艦尾から海中に引き込まれていきました。

 1時55分「初霜」より発信、連合艦隊司令部に電報が届いていました。

「4月7日敵ト交戦中、矢矧魚雷ニ命中航行不能、大和魚雷、爆弾命中、駆逐艦冬月、雪風以外全部沈没マタハ大破」

 つづく、2時17分「初霜」より発信、

「大和サラニ雷撃ヲウケ誘爆、瞬時ニシテ沈没セリ」

 2時過ぎ、連続投入された米攻撃隊が到着した頃には、「大和」左舷の高角砲と機銃は血の海となり、殆ど全滅していました。2時15分、とどめとなった10本目の魚雷が命中。右舷注水区画も、機械室(操作人員在り)、缶室への注水を決行したものの、もはや満水となり傾斜復元不可能となった「大和」は、午後2時23分に転覆し、そのときに主砲の弾薬庫が大爆発を起こして沈没しました。今も、北緯30度43分、東経128度4分、長崎県男女群島女島の南方176キロの水深345メートルの傾斜した崖状の海底に、伊藤中将をはじめ2470名の戦没者と共に二つに折れたまま横たわっています(下記 図1)。

図1 坊の岬沖海戦

高速で右に旋回する「大和」、からくも爆弾を左舷にかわしています。

3隻は最後まで「大和」を守ろうとした駆逐艦隊「冬月」「初霜」「雪風」。
2時45分第41駆逐隊司令・吉田正義大佐から、海軍大臣と軍令部総長に宛て発信。

「一一四一ヨリ数次ニワタル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲウケ、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼風、霞航行不能、ソノ他ノ各艦多少ノ損害アリ、冬月、初霜、雪風ハ救助作業ノ後再起ヲ計ラントス、一四四五」
 
 この時点で「浜風」は沈没し、「霞」もほどなく沈没。佐世保に帰投できたのは、「冬月」「初霜」「雪風」「涼風」の4隻だけでした。特に「涼風」は戦闘初期に艦首を大破していたため、敵機や潜水艦が遊弋する160海里(約300キロ)を後進で帰還したのでした。

 こうして「菊水一号作戦」の「海上特攻隊」は「大和」2470名、二水戦981名の合計3721名の戦没者を出し、激烈な戦闘を終えています。

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