本土防空迎撃戦
(本土爆撃を阻止せよ)
この文章・写真は、光人社NF文庫『写真太平洋戦争第9巻』より抜粋しました。
比較検討には、世界文化社『連合艦隊・日米決戦編』を参考にしています。
本土防空任務と言えば海軍では最初の局地戦闘機『雷電』または、『紫電改』が思い浮かべられます。
陸軍航空機では長距離複座戦闘機『屠龍』、二式戦闘機『鍾馗』、四式戦闘機『疾風』などが代表でしょうか。
メタノール噴射装置を装備した機体なども、多くはありませんが配備されていた様です。
しかし、試用の粋をでない物で、結果として軽量化するほか道はありませんでした。
高々度で日本上空に侵入するB−29スーパーフォートレス『超空の要塞』。B−29も、最初は夜間に高度四千メートル程度で爆撃を行っていましたが、日本夜間戦闘機による被害も無視できない数になり、爆撃照準機の性能向上・戦局の推移もあって、昭和19年11月以降は昼間高々度爆撃に切り替えました。 |
『B−29本土に接近中!』の報に、愛機を目指して駆け出した搭乗員。前路哨戒にあたる彩雲偵察機が手前で、彗星艦爆改造夜戦が2機並んでいます。 |
昭和19年3月1日に開隊した厚木第302航空隊の写真(3月下旬)。編成当時、雷電隊は横須賀に在りましたが下旬には合流し、帝都防衛の主力を担っていました。 |
日本陸軍は北九州の製鉄産業を守る為に、山口県小月に『屠龍』飛行第4戦隊を配備しました。屠龍は長距離戦闘機として開発されていますが、大口径37ミリ砲搭載して迎撃任務にも転用されています。 |
昭和19年11月以降は昼間高々度精密爆撃法を採用し、高度七千〜九千メートルで侵入するようになりました。 当時の日本機の性能では、同高度まで上がるのに早くても約1時間もかかっていた様です。 海軍対空監視艇及び八丈島レーダーから連絡が入り次第、迎撃に上がらないと間に合いません。 かりに上がれても一撃すると高度が千メートル程度下がってしまい、二撃目は無理だった様です。 そのうえ、護衛戦闘機が付いていたら攻撃どころか、撃墜される可能性がありました。 (高々度に上がるため極限まで軽量化し、後防御用旋回機銃・人員を乗せていませんでした) |
日本の首都はほとんど焼かれ、昭和20年8月6日、最終兵器の原子爆弾が広島に投下されました。 3日後の9日には長崎、そしてソ連軍が不可侵条約を破り対日戦参戦。 14日深夜にポツダム宣言の受諾を連合軍に通達し、翌15日正午に昭和天皇の玉音放送が流されます。 それでも、一部の将兵は徹底抗戦を叫びましたが、大局は決していました。 終戦の知らせを受けても内地に帰還せず、現地の独立運動に協力して戦死された方も多かった様です。 (その後のインドネシア独立運動に参加した日本軍将兵は、三千人以上と言われています) |
3月19日に四国・松山基地の海軍343空『剣部隊』は、広島県呉地区に来襲した敵艦上機との迎撃戦において、
ベテランの搭乗した紫電8機と紫電改54機が、F6F、F4U合わせて48機とヘルダイバー4機の52機を撃墜。
損失は16機という海軍としては久々の大戦果を上げています。(米空母は大損失に驚き、一時避退)
編集後に買った河出書房新社『アメリカ軍の日本焦土作戦』には、対日戦略爆撃が詳しく書かれていました。
ただし、原子爆弾被爆被害者の死体写真なども載っていますので、苦手な方には・・・。
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