2002.2.6更新

大川著作ロゴ


 

『生命の泉』より

第2章 はらい

道のことに就いて、云うべきことは山山であるが、その神髄を筆にするこ とは容易ではない。ただ、ひとくちに言えば「じょうばらい」と云って、一切 の念頭にかかる雲霧をば、絶えずはらい去ってゆくという一事である。

元来、人間の世界は、ものがあったりなかったり、生まれたり死んだりする変転常 なき差別界であって、あるかと思えばなくなり、ないと思えばまた出来、生れ たと喜んで居るうちに死に、今死んだと思えばまた生れる。

すべて不可得と云ってとらえどころがない。そのとらえどころのないものをとらえようとして 心をいためるのが人間の常である。この執着あるが故に、人間の苦悩が生 じて来るのであるから、有無生死にとらわれて居る間は迷いであろう。

この迷いをはらすのが道である。すべては、天のものであって、我がものというも のはない。我がものがないのに、我がものにしようとするから、苦しみ悩みが 起こって来る。故に、我がものという意識をはなれてしまえば、安楽地に住す ることができるのである。

そこで、この我という意識、我がものという想念をつねにはらいさってゆか ねばならぬ。これを「じょうばらい」というのである。このはらいの心を、 常に活用してゆく外に道ということはないのである。ねてもさめても、心の はらいひとすじにという心意気でなければなりませぬ。絶えずはらい去って ゆけば、憂悲苦悩の雲霧はない。

本来無我の清浄心、一物もない大空のような、本の住家である。一塵なきが本来の心である。

(以下本文略)昭和28年12月25日発行。

本書は、大川が黒住教本部を退職し、一求道者として世に立った時の最初 の記念すべき出版物です。原典は「黒住宗忠」ですが、本書は道を説くた めには、貧しさをものともしない、大川の真骨頂が溢れた輝きに満ちた 書です。第2章の「じょうばらい」は大川の生涯の信念でもありますから、 心して味読したいものです。


一塵なきが本来の心である

2002.2.6掲載

『生命の泉』より

第三十一章望みなきが活物である

 どんなにきれいな花でも、咲けば散る。咲かねば散りはせぬ。わかりきった事だが、咲くとい うことは、散ることの前提である。これは自然の理法で、動かすことができない。  世には、正義の人が下積みになり、不正な人が、時を得顔に、わが世の春を謳歌している、実 に不合理な事と思はれるが、深く考えて見るのに、咲いた花は散り、咲かぬ花は散らぬという、 前記のような自然の理法に基ずいていることがわかる。

 いかなる正義の人の美事善行も、世の表面にあらわれて、世人からもてはやされるようになれ ぱ、花の咲いたようなもので、早晩葬りさられる運命にある。要するに、それが世人の賞讃を得 たということによつて、事済みになつたのである。故に、正義善行は、世にもてはやされない処 に、却つて長持ちする道理があるとしなければならぬ。

 これに反して、邪悪の人が、その悪賢い策略によつて、世に売出して、もてはやされるのは、 恰も花の咲いたように、早かれ晩かれ、凋落の運命にのぞんでいる証拠なのである。世にあらわ れたものは必ず没落する。故にあらわれたということは、没落の前提であつて、悪が世に時 めくということは、天が悪を葬らんとする前提に外ならない訳である。かく考えて見ると、天地 自然の理法の深妙なことに驚かざるを得ないのである。

 東西の歴史を見ても、一時栄えた悪人は、やがて葬られ、不遇をかこちながら死んで行つた正 義の士が、後に至つて、その真価を発揮して来た実例は少くないであろう。  そこで、善悪共に、天地自然の理法にまかせて、わが望みを起さぬ事が肝甚なのである。若し望みを起せば、「おれは正しいのに認められない。おれは働きがあるのに不遇である。こんな不 合理なことはない」などと云って腹を立てるか、さもなければ、「あいつは悪い奴なのに、要領 がよいばかりに、もてはやされる、癪に障つて仕様がない。何とかして、葬る法はないか」など と、悲噴慷慨せねばならぬ。これは、善悪正邪にとらわれすぎた考えで、信心をする者の態度で はない。なぜなら、宗教の世界はすべて望みという望みをはなれて、いわゆる「阿呆になる」道 だからである。阿呆には、望みというものはない。そこで一首

    何事も望みなければ世の中に
       足らぬことこそなかりけるかな

かように、望みという望みをはなれた人には、生死も善悪も歯が立たぬ。生きたいとか、死にと もないとか、善人は好きだが、悪人はいやだというのでは、どうも窮窟で仕方がない。宗教は、 有無生死、善悪邪正という相対界の繋縛からのがれて、真の自由を教えるにある。

 有無を超え、生死を超え、善悪を超えたところに、本来清淨の平等界-宇宙の本体がある。 これがいわゆる活物であつて、この活物を捉えて、生通しの自覚を得るのが宗教の究寛地だが、 この活物を捉えるには世の常の望みをはなれなければならぬ。望みをはなれるといえばむつかし くきこえるが、要するに、有無も生死も善悪も、一切含切天にまかせるという以外の何物でもな いのである。まかせきれたら、自由自在だ。自由自在になつたら活物である。護黙動静、行住坐 臥すべて活物であつて、劒樹刀山も、この人の前をさえぎることは出来ないのである。

   善悪も有無も生死もうちまかせ
       望みなきこそ真の活物

 




「土と太陽の宗教」より”太陽に帰れ”抜粋



 

大川プロフィールにもどります